母との別れ
2020年8月、大腸ガンにより余命宣告された母。
何度か危ない場面はあったものの、鳥人間コンテストの水面ギリギリでダメかと思ったら低空飛行を長く続けているような、母はそんな驚異の生命力を見せてくれていた。
そんな母にもとうとう、終わりが近づいていた。
転移した癌は、肺を圧迫していた。
呼吸は浅く苦しいようで体に取り込む酸素濃度は下がり、意識が朦朧としてきたので救急車を呼び入院する事となった。
肺の機能が弱くなり、呼吸器をつけて酸素を送ってあげても吐き出すのは自力でしか出せない。
二酸化炭素は吐き出せないと体中に溜まり、意識が朦朧としてくるらしい。
これが最期になるかもしれないと思いつつ、仕事を16時で上がった私は夫に車で母の入院している病院へと連れて行ってもらった。
病院てものはやはり慣れない。
普段の日常生活とは別世界でそこは、いつも私の気分を落ち込ませる。
出産で入院した時でさえ、何だか切なくて真面目タイプのHSP気質な私はリアルなその空気感に飲み込まれてしまう。
母の部屋に入ると、母は寝ているようだった。
私が「母さん、来たよ、クミだよ。」と声をかけるとすぐに目を開けた。
それは、意識的に目を開けたというよりかは声に脳が反応して反射的に目を開けたように感じられた。
だが、私の事は認識したようで頷いてくれた。
意識はあるが呼吸が辛いようで、すぐに疲れてしまう。会話は、途切れ途切れになりながらも私の知っている母のままでいてくれていた。
それでも、私は声をかけ続けていた。
仕事に復帰したこと、家庭と仕事の両立の大変さや、子供たちの成長について一方的に母の耳に聞かせた。
私の声に頷いたりしているうちに少し休めたのか、たくさんの話をする事が出来た。
途切れ途切れの命。
そんな母に対して感謝の言葉しかかけられなかった。
いや、本当はもっとぶつけたい思いと言葉はある。
だけど、そんな終わり方、さよならは嫌だった。
私からは、自然と涙が溢れていた。
『今までありがとう、大好きだよ。とても感謝しているよ。』
嘘、偽りのない本音。
元気な時にかけたかった言葉が次々とこぼれ出す。
私は、母が好きだったんだ。
もっと、褒めて欲しかったんだ。
母は、昔から人を褒めるタイプではなかった。
私には、明確に褒められた記憶がない。
小学生の時に習字や絵のコンクールに選ばれても、陸上で代表に選ばれて表彰されても観にきてくれたり、褒められた記憶がない。
だからといって、こうしなさいああしなさいと口うるさいわけでもなかった。
だから、母が私の事をどう思っていたのか本音がわからない。
知りたかったけれど、そういう話をすればごまかされ流されるだけで、だんだんと母に気を使うような子供になっていた。
今、思えば肯定はするも否定はしないし褒めもしない。
そんな方針で私の幼少期は形成されていたんだと思うな。
「あんたは、頑張りすぎちゃうから気をつけるんだよ。」
母が私にかけた最後の言葉。
はっきり言って、欲しかった言葉ではなかった。
だって、それは自分でわかっている事なんだもん。
でも、父に対して
「もっと、父さんに優しくしてあげれば良かった。」と
この言葉を聞いて、私の今までの気持ちが成仏したように感じられた。
この言葉が聞けただけで私は母を嫌いにならずに済んだ。
父と母は決して仲が悪いわけではなかった。
ただ、長年連れ添った夫婦はお互いに思いやる気持ちが元々、少なかった。
自分だけが頑張っていて、我慢をしているというような感情がお互いに
たまってすれ違っていた。
余命がわかっている母から、父との日常のやりとりの話を聞くのが嫌で残りわずかな時間とわかっていても私は母と距離をとっていた。
せっかく会って、どこかでもしたであろう内容を娘にして何になるんだろう。もっと深いこれからの事を話たかった。
だから、きつく言ってしまう時もあった。
でも、最期に母は父に寄り添ってくれた。私の理想の気持ちになっていた。
もう、それだけで嬉しかった。
”人は最期に人生でやってしまった後悔より、やらなかった事に対して後悔する”という事を本で知っていたので、まさにと実感した。
母は、家族に対しての想い、してあげたかった事に対して呼吸が苦しい中話してくれた。
”生きている時には素直になれないんだ”と言っていた。
母との30分くらいの時間を病室で2人きりで共有でき、私は満たされた。
これで最後かもしれないと思い、看護師さんにお礼と感謝をつたえ病室を後にした。
もう悔いはない。天気のいい空が私の気持ちを表しているようで私は駆け足で家族の待つ駐車場へと戻った。
あとは、時が来るのを待つだけ。
この数日後に母は退院し、自宅で息を引き取った。
病院では、子供たちとの面会はできなかったから自宅に戻って孫たちとの最期の挨拶もすることが出来ていた。
だから、本当に悔いはなかった。
71歳で亡くなった母。
人付き合いが上手で周りから愛される存在で家族葬といえどたくさんの方が母の最期に集まってくれた。
幼馴染の友人は家族で会いに来てくれて皆で泣き笑いをした。
いわゆる、母のママ友だったり高校の同級生などが来て下さって母の人柄の良さを再認識した。
私も最後を迎える時に、今お付き合いのあるママ友とこういう関係を築くのだろうかと疑問に感じる。
覚悟が出来ていた私は冷静で、涙する事はなかったけれど火葬場での最後はさすがに悲しく涙がこぼれた。
お坊さんから
「家族は、生まれ変わってもまた違う形で出会うから悲しまないで下さいね。」
と声をかけてもらい、姉とこっそり「また会うんかい!」と笑った。
2024年5月のとても天気のいい中で、私の気持ちはすっきりしていた。
不謹慎になるかもしれないが何か、別のステージがようやく始まるなと感じていた。
一番、身近な母の死をきっかけに人との付き合いかた家族への感謝の気持ち、接し方が変わる事ができた。
何事も死んでからでは遅いのだ。
ここまで、長く綴りましたがこれで終わりになります。
母が亡くなって半年が経ってようやく書き終わる事が出来ました。
最期まで読んで下さりありがとうございました。
これから、別ステージに進み始めた私たち家族について綴っていきたいと思います。