書くこと、書きたいこと、書けないこと。
140字程度の下書きがだんだん溜まってきた。書きたいこと、言いたいこと、日頃思うことは色々あるものの、今は疲れているのか、それら一つ一つを丁寧にまとめられない。多分今日は18時間くらい寝て過ごしたと思う。熱中症が災いして、外に出る体力が削られてしまった。一日一万歩歩こうと思っていたのに、全然。
書くこと、書きたいことは全く違うと思っている。例えば、レポート。これは書くことで、書けるけど、必ずしも書きたいことばかりでは無い。興味の範囲を超えていても、単位のために書かなければならない時はあるし、そういう時はフォーマットに当て嵌めていくようなものなので、何も難しいことは無いが、楽しくもない。
却って、書きたいことと言うのは、例えばこのnoteだったり、私の興味のあることであったり、自分の内から出る欲求そのものである。これは誰かの為に書くわけでもなくて、書きたいから書くだけの孤独な趣味だろう。一人でテニスボールを壁打ちする時のように、頭の中で散らばる考え事を順序だてていく。これをすると、少し頭の容量が増えるような気がしている。USBメモリに写真を移すようなものだろうか。
一方で、書きたくても書けないものが存在する。それは今溜まっている下書きのように、途中まで書いて集中力が途切れてしまったり、書き始めたはいいけどまとまらなくて投げ出したものだったり。
これにも理由がある。まとまりにくいテーマというものが存在するのだ。
例えば、恋愛。これは私の内にはない事だが、興味はある。人間がなぜ恋愛をするのか、恋愛をしていると自覚するのは何故なのか、惹かれ合う人間同士が、その関係にしばしば文句を言うのはなぜなのか。自分に無いからこそ気になるものだが、この、無いというのが少々厄介なものである。要はこれらの感情の動きを定義付けて理解することは難しくないかもしれないが、それを自分事にして把握することが出来ないので、知識としては有しているが、経験がない状態になってしまう。これが言語であれば、やはり喋らないと学んだことにはならない。運動にしても、数学にしても、知っているだけでは学びとは言えず、自分で経験して、身につけて初めて学んだと言えるのであって、それは自らの知恵と言っても差し支えないものになるだろう。これが、なぜか恋愛だと出来なくなる。人間としての営みのひとつなのに、なぜそのような状態に陥るのだろうか。
そして、人と人との関わりを持つということ。これも私は苦手であり、それらについて書きたい、書こうと思っても、自分の中のごちゃごちゃした感覚を言語化して整理することが出来ず、いつまでも形にはならない。これというのも、先に挙げた恋愛と同じで、とにかく経験が少ないので身についていないのだろう。本を読んだことの無い人が本を語るのが難しいように、人と関わることを避けた人が人との関わりを語れるかと言うと、そうでは無い。
では、語れる、書けることと、書けないことの違いはなんだろうか。それは、どうしても相手が必要になるか否かというところだろう。
勉強をするだけであれば、現状この世には解いても解ききれない程のテキストがあるし、問題がある。対象が思考であったり、モノである場合、そこにわざわざ他人を呼び寄せてなにかを語らう必要はない。プロであれば、例えばそれらを発表する場に足を運んだり、自分だけで成立しないのであれば助けを求めなければならないだろうが、個人の趣味であるうちはこれらをする必要はあまりない。
だから、私は一人のことしか書けない、自分の内のこと、それが枯れ果てたら、多分、何も書けない。
noteを始めて、気がついた恐怖がある。
私は新しく関わりを持つことが苦手だ。基本的に人間は嫌いだし、生活に入り込んで欲しくない。近い距離に来られるだけでも嫌だ。仕事だって、本当は人と最低限しか関わらないものを選びたい。
しかしそれでは、人生における新たな活力を得るのはとても難しいのではないだろうか。内から発されるエネルギーは今のところ尽きる様子を感じられないが、それでも、今いる友人が居なくなってしまったらどうなるか分からない。人と人との関わりを築くことをしてこなかったから、今更どうしていいのかも分からない。
人生は難しい。私は、私の内にある思考が枯れ果てたらどうしようと、常に恐怖している。今のところ生きがいはそれしかないからだ。私という人間は、ほんの少しの人々との関わり、それから、自分の中にある興味、好奇心だけで構成されている。これが無くなった時、一体私は人間の形をしているのだろうか。