他人とは相性が悪い、生きることに向いてないんだ君は、「行動」と「内省」の近親相姦的ララバイ、
八月二十日、
午前十時五一分。紅茶、東ハトのソルティ三枚。午前九時半ごろ、帰って来たジジイに起こされる。夜逃げじゃなかった。現場では途中から体調が悪くなり入院していたという。この酷暑のなか肉体労働しようとする老人もアホだけど、させるやつも同じくらいアホ。自分の出来ることと出来ないことの区別が付かないのは普段から自分を粗雑に扱っているからだ。体の各種センサーが狂っているからだ。人はもっと己の快不快に敏感になったほうがいい。己の快不快に敏感であればこそ「冒険」も出来るのだ。「精妙に、だが大胆に」。高校の体育祭のスローガンかよ。「みんなは一人のために、一人はみんなのために」みたいなファシズム的スローガンよりはマシか。いま失望と安心が入り混じった妙な気分。失望というのはもし夜逃げだったら「話のいいネタ」になったと思うから。安心というのは一万円はたぶん返ってくるから。ああ俺は小さな人間だ。いつも痛感する。こんな小さな人間だから革命も起こせないだろう。昨日午後、野々市のセカンドストリートまで歩いて行ってきた。風が弱く、不快指数が実に高い日だった。俺がプロウォーカーでなければ熱中症になっていただろう。店ではセクシーなノースリーブなど四点を購入。しめて約2000円。いい趣味の古着は思ったほど多くなかった。ちょっと前までお盆セールみたいなことをしていたのかな。
しかしbicycleに慣れてしまうと歩くのがひじょうに遅く感じる。でもやはり俺は徒歩のほうが好き。千年前の人間は自転車になど乗っていなかった。たぶん千年後の人間も自転車には乗っていないだろう。自転車で走るたび自転車の中途半端さを実感させられる。歩道も車道も堂々と走れない肩身の狭さを感じる。
酒井隆史『ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか』(講談社)を読む。
デヴィッド・グレーバーの定義によると、ブルシット・ジョブとは、「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態」のこと。彼は、介護士やトラックドライバーといった「エッセンシャルワーカー」の給料はきほん安いのに、なんとかコンサルだとか企業弁護士だとかトレーダーだとかあってもなくてもほとんど誰も困らないばかりか時には有害でさえある職業の報酬がやたら高いのはなぜか、という問題を『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』のなかで正面から取り上げた。グレーバーの著作はエマニュエル・トッドの著作同様、読むことで「世界の見え方」が劇的に変わる。誇張じゃない。あのウイルス禍は「なくてはならない仕事」と「あってもなくてもいい仕事」の違いを残酷なくらいはっきりさせた。がいして組織が複雑になればなるほど何だかよく分からないブルシットな管理職が増える(大学などのあの膨大な事務のことを考えればいい)。それらを生み出すのは資本主義自体ではなく「マネジリアリズム(経営管理主義)・イデオロギー」なのだ、とグレーバーは言う。こんにちの我々はねんじゅう何らかの書類を書かされていてもう慣れっこになっている。批判能力をすっかり失っているので「これ必要?」とかいちいち考えなくなっている。氏名や年齢を書かされるたびこの上ない不快を覚える私のような人間は少ないのかもしれない。感性が鈍磨すると人は自分がいかに劣悪な社会に生きているかということさえ認識できなくなるんだな。ところで私にとってグレーバーといえばまずは『負債論』だ(次に『官僚制のユートピア』)。いま借金(奨学金)が二百万円近くあるので、「なんで借金があるということはこんなにも不快なことなのか」と考えることが多い。金というのは借りていても貸していても不快なものだ。ほんとうは誰も金のことなど考えたくない。「金持ち」になればきっと金のことなどほとんど考えないで済む、と「金持ち」でない人たちは考える。「金のことをほとんど考えないようになること」こそ彼彼女らにとっての「金への復讐」なのだ。ああ、なんて惨めな復讐なんだ。私は賃労働が死ぬほど嫌いで、雇用されることにさしたる苦痛を感じないような人たちとはひどく相性が悪い。自分とはぜんぜん別種の生物を見るような気になる。私は雇用という言葉にさえ生理的嫌悪を感じる。だからいまとても苦痛だ。食うための魚を川で釣ったりしながら生活したい。いつも俺は願望だけだ。やはり革命は起こせそうもない。革命なんか糞くらえだ。もう昼食。シーチキンご飯。貧乏ダンディのオナニスト宣言。
【備忘】2500円