「生きるのを止めたいコミュニティ」構想について、ジラフはシラフでは生きられない、httpゴロンつまり野蛮な焼死体、おそそ、毛、三島の睾丸、三兆円、
一月十二日
午後三時半起床。ドリア、紅茶。布団から出たくなさ過ぎて二度寝が四時間を超えてしまった。書くこと以外何もしたくない。読むのも正直しんどい。シオランの『カイエ』なら読める。でも高いから買えない。昼夜逆転を許すか許さないか、これが問題だ。冬の昼夜逆転は大変なんだよ。散歩もやりにくくなるし。夏の深夜徘徊は大好きなんだけど。これを機に「新自殺論」の原稿でも書くか。カルピスウォーター割りのイオンウイスキーでも飲みながら。精神科へ行くのは来月にした。来月になっても行かないかも知れない。そもそも精神を病んでいるのは俺じゃなくて俺以外の元気そうな人間なんだから。俺の好きな『リア王』の台詞ふたたび。
In a mad world, only the mad are sane.
狂った世界で気が狂うなら気は確かだ。
きのう午後三時から文圃閣へ行ってきたよ。とちゅう人間を見るのは苦痛を感じたがぜんぶ細胞のカタマリと思うことでなんとか発狂は免れた。買ったのは、原口統三『二十歳のエチュード』、『埴谷雄高思想論集』、金子光晴『フランドル遊記 ヴェルレーヌ詩集』、A・ピエール・ド・マンディアルグ『オートバイ』、小田部雄次『華族』の五冊。しめて七七〇円。『死霊』がぜんぶあった。買わなかったけど。十年前、文庫でいちおう全部読んでいる。彼からの精神的輸血はもう済んでいる。だからいまさら読み返そうとは思わん。埴谷的な宇宙革命思想を引き継げるのはどう考えても俺しかいない。どこを見渡しても木偶の坊ばっかりだから。埴谷が友人に望むものとして挙げた「無限の時間のなかで偶然一緒に生れあわせた哀感」を、今の俺は地上のすべての同時代人に抱いている。俺はすべての生物を愛している。すべての生物を「いまここ」の苦しみから解放させられるのなら、俺はどんな犠牲でも厭わないつもりだ。痛くなければね。
日野行介『原発再稼働 葬られた過酷事故の教訓』(集英社)を読む。
俺は家のすぐそばに原発があるところに生まれ育ったので、「原発問題を語ること」の難しさは皮膚感覚で知っている(つもり)だ。というのも祭りとかがあると、原発もしくはその関連施設で働いている人たちもそこにいるんだ。計画当初は住民の反対運動なんかもとうぜんあったみたいだけど、一度出来てしまうと、誰も声を大にして批判の声を出さなくなる。田舎ってところは誰もがいちおうは顔見知りなもんだから、「政治的主張」の強い人間は、「村に対立や分断をもたらす存在」として、(やんわりと)忌避されるようになる(同じことは緒方正人『チッソは私であった』でも書かれていた)。北陸電力の広報施設のひとつであるアリス館志賀は、子供の遊び場でもあった。そこでは「原子力発電の技術がいかに素晴らしく安全であるか」ということがあらゆる展示物によって示されている。志賀原発はげんざい運転停止中だが、それらのPR施設はあいかわらず「原発の必要性」を熱心に説き続けている。この落差に空しさを感じない子供はたぶんいないだろう。そういえば原発の隣接地には「花のミュージアム フローリィ」というPR施設もあった。中日新聞の記事によるとこれもまた「原発立地自治体への関連交付金」で作られたもの。ただもう困難で閉館したらしい。さもありなん、としか言えない。俺も人間だから、「生まれ育った地のこと」は、あまり悪くは言えないんだよ。
私は「人間の未来」のことなど少しも憂えていない。というのも人間などもうとっくの昔に死んでいるから(まだそのことに気が付いてない馬鹿もいるけど)。もう死んだ者たちのことでどうして憂えることが出来ようか。したがって、放射性廃棄物をめぐってよくなされる、「将来世代への義務」といった議論にもぜんぜん関心を持てない。「脱原発」も糞もないのである。
いまの私が大事にしているのは「絶望の共同体」構想である。私は人間が自主的にきょくりょく苦痛を回避しながら穏便に漸減消滅していくことだけを希望している。「苦痛の再生産」に無自覚に加担し続ける人間にはどこまでも「やめろ、それだけはやめろ」と言い続けたい(ときには「多勢に無勢」かも知れんけど)。私は、人間の本質的愚かさの連鎖反応に終止符を打つ手助けをしたい。私の「使命」はそれだけだと思っている。
さあ散歩するか。というか買い物か。びびんばびびんば。絞首刑。