酒が飲めなくなった、それが「天の思し召し」ならば、もう酒をやめる、酒をやめるなら人間やめるなんて嘘ぴょん
二月二十六日
十二時二〇分起床。昨夜ひさかたぶりに酒を飲むもすぐに酔いが回り(イオンウイスキーのジュース割りをタンブラーで一、二杯)、頭ズキズキ胃ムカムカモードに至る前に飲むのをやめた。八代亜紀の「舟唄」を聞きながらだったのに、しみじみともほろほろともぽつぽつとも飲めなかった。やはりもう飲めない体質になってしまったのかとひとしきり感慨にふけらざるを得なかった。どこまでエビデンスがあるのか知らないが、悪酔い(二日酔い)についてはよくエタノールの代謝産物アセトアルデヒド(acetaldehyde)が槍玉に挙げられる。大学の「生化学」の講義でもアセドアルデヒドの分解には個人差があるという話を聞いた。ひょっとしてひょっとすると悪酔いの主因は僕の体質変化ではなくてこの廉価な「ウイスキーもどき」にあるのかもしれないけど、いずれにしてももうこれが「止め時」なのかも知れない。とつぜん体が酒を受け付けなくなったのはきっと「天の思し召し」、いや「観世音菩薩のお計らい」なのだ。ときに「哲学者」らしからぬことも放言させてくれ。判断留保の括弧を使いまくる「厳密志向」には実はうんざりしているんだ。ほんとうは私は「神話的思考様式」が大好きなのだ。酒代をぜんぶ本代に充てて、酒を飲む時間をぜんぶ本を読む時間に使ったほうがいい、ということさ。酒の酩酊より書物の酩酊のほうが「精神」をずっと高揚させるじゃないか。ハイになれるじゃないか。まだ見ぬ「精神」の地平あるいは深山幽谷に足を踏み入れる感動がある。この場合の「精神」とは、ある種の緻密な内省思考を重ね続けている人間にしか開かれない「知的領域」であり、この「知的領域」の先にしか「実存の解放」はないと今の私は直観している。アルコールへの耽溺で中島らもの二の舞を演じるわけにはいかない。ここで彼のよくしられた「名言」を思い出す。
タバコであれ、アルコール飲料であれ、「非合法ドラッグ」の類であれ、人間における「実存のもてあまし」を誤魔化すために機能している点では、ほとんど何も変わらない。外からの化学物質でしか生存の虚しさや退屈を慰められない人間は惨めであり、知的に下等である。その知的下等さは「乗り越えられねばならない」。ちょうどニーチェのツァラトゥストラにとって人間が「乗り越えられるべき何ものか」であったように。何によってこの知的下等さを克服できるのか。第一に学問、第二に観想によって、という「べき」ではないか。アリストテレスが実践(プラクシス)に優越させた観想(テオリア)にこのごろ私は注目している。かつてなんとなく軽視していた「テオリアの生活」にこそ「実存救済」の突破口がある気がしている。その「テオリアの生活」の核となるのはロゴス(理性)であり、このロゴスの成熟は「内省」と「諦念」によってこそ促進される。
関戸克己『小説・読書生活』(国書刊行会)を読む。日本の小説でこれほど自分の実感に合うものを読んだのは、久しぶりだ。島田雅彦の『天国が降ってくる』以来かも知れない。「生きている渦巻き」は何度も読める。というか二度三三度読まないとその細部や全体の構造が把握できない。終盤近くのサイケデリック・カオスに至っては身を預けることしかできない。もう故人で新作を読めないことを本心から残念に思う。本作には「根源的な問い」が多く含まれている。そのなかの一つの問いは、「(私は、狂っている=狂っていない)」のなかに集約されている。つまり、気が付けば既に投げ出されているこの目眩めく不快世界にどうして誰も吐き気を催さないのか、ということだ。これはサルトル的「嘔吐」のパラフレーズだ。この物語の基調をなしているのは「もううんざりだ」の悲鳴だが、これを聞き逃す人はまさかあるまい。すべては絶え間なく絶望的に回転にしている。DNAの螺旋から銀河系宇宙までの「正常ではない渦巻き」をぜんぶ止めてしまいたい衝動に駆られている「私」。この「私」は「狂気」ではない。この果てしなき「渦巻き」に巻き込まれながらいつも「正気」でいられることこそ「狂気」なのである。
表題作「小説・読書生活」の、「とどのつまり物語の目指すところは、人間世界のあらゆる出来事を<赦しと救済>という不可視の一点に向かい収束させていく試みのように思えて仕方がないんです。」というところに線が引いてある。文学は「自由と解放への欲望」を喚起させる、というテーゼに固執している今の私としてはまるごと同意せざるを得ない。
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