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海賊王に俺はならない

三月二十日

二時起床。月曜日、ライブラリーが休み。英気を養おう。とはいえ妖怪アクビンもしくは害獣ヤニジイが在室中だ。昼間から気の抜けた汚いあくびを連発している。テレビを付けっぱなしにした部屋でぽつねんとしている独居老人ほど退廃的で無知性的な存在は他にない。テレビは退屈と不安をまぎらわすのに使われる最も俗悪凡庸な「暇つぶし装置」だ。前代未聞の文学的形式で自伝を書くとか、リーマン予想の証明に取り掛かるとか、反政府活動あるいは世界革命の準備を始めるとか、もっと知的で刺激的なことがあるだろうに。どうしてそう馬鹿みたいに「だらだら」過ごせるのだろう。なんの渇望もないのだろうか。私はあらゆる生き物が嫌いだ。

スラヴォイ・ジジェク『ジジェク、革命を語る(不可能なことを求めよ)』(中山徹・訳 青土社)を読む。一問一答による講演録という形式なので、スラヴォイファンはもちろん、スラヴォイビギナーにもうってつけ。私は彼の本を読んでいて、いつもその縦横無尽変幻自在の思考技法に見惚れてしまう。およそ理知的でありながらときにゲリラ的、ときに暴力的、予想もつかないアイロニーを矢継ぎ早に操り出しながら、突然、予想もつかないパラドキシカル論法で既存の通念を引っくり返す。なかには眉唾っぽいものも少なくないが、それでも、その機動性の高い論じっぷりには脱帽せざるを得ない。血潮が熱くなる。彼の文章にはどれも、「今まさに起こっていること」の状況分析が鋭く反映されている。そのアクティブ過ぎる知性に触れていると、「アンガージュマンengagement」という古い言葉を思い出さざるを得ない。リーマンショックだとかドナルド・トランプなんていう世俗的なことを真剣に論じる哲学者なんてださいよね、という素振りほどジジェクから程遠いもにはない。「歴史情勢」こそつねに彼の思考や感性を形作っているものなのだ。なにしろ外界に実在する権力装置は「私」に現に暴力を及ぼすことが出来る。それはどこか遠くにあるものなどではない。我関せず焉と思える人間こそどうかしているのだ(もっとも「存在論」に関しても同じことが言えるのだけど)。彼が、保釈中のジュリアン・アサンジ(ウィキリークス創設者)との公開対談に駆け付け加勢したのも、ウィキリークスの提起した問題に「とてつもない緊急性」を感じたからだろう。また、その対談を報じた「Democracy Now!」の放送によると、ウィキリークス訴追の可否をめぐる大陪審はさながら「中世の暗黒裁判」であるとのことだ。
ジュディス・バトラーはいまだに家父長的なアイデンティティ・ポリティックスを批判しているといった持論がとちゅうであったが、よくわからなかった。私はジュディスの本が苦手なんだ。今年の夏ごろにでも格闘したいとは思っている。

ポール・ホフマン『放浪の天才数学者エルデシュ』(平石律子・訳 草思社)を読む。ハンガリー出身の天才数学者、ポール・エルデシュ(一九一三~一九九六)の伝記。ハンガリー出身のといえばなによりもまずジョン・フォン・ノイマンを想起する。度外れた天才としてはノイマンはかなり常識をわきまえた紳士だったようだが、エルデシュはまさに「奇行」の総合商社。ノンフィクションライターとしては書くネタに困らないだろう。ところで「天才」表象が往々にして「変人」としてステレオタイプ化されがちなのは、そのほうが面白いからである。たとえばクルト・ゲーテルやゲオルク・カントールについて文章にはたいてい、彼らの常軌を逸した言動を伝える挿話が付いてくる。読者は「そういうの」が好きなのだ。凡人がそういう話を聞くとなぜかなんとなく、「自分もまんざらではない」と思えるのだ。
エルデシュは、金に執着がなく、起きている時間の大半を数学問題に費やし、生涯で一五〇〇近くの論文を書いた。その共著論文の多さから後にエルデシュ番号というまで考案された。天才数学者と聞くとつい象牙の塔にこもってひたすら証明なんかに没頭している紋切り型イメージを沸かせてしまうけど、すくなくともエルデシュに限ってはその真逆といっていい。彼は数学者仲間といつも過剰なほど積極的に交流していた。おそらく個人的知性よりも集団的知性に大きな信頼を置いていたのだろう。彼にあっては世俗的名声など学問的な純粋快感に比べれば取るに足らないものだったのだ。金や名声を隠者的に遠ざけたという点では、ポアンカレ予想を解決したグリゴリー・ペレルマンはその最たる例だろう。いま私はポアンカレ予想をめぐる数学者たちについて書かれた本を読んでいる。
それにしても、誕生日を「通夜」、神を「スーパーファシスト(SF)」と呼んだりするエルデシュのセンスは、私には好ましい。「わしの頭は営業中だ、君の頭は営業中かね」といきなり人を訪ねる奇人ぶりも好ましい。結婚などせず子供を作らなかったことも好ましい(そんなの頭の弱い「凡庸な人間」がすべきことだから)。彼が生涯ひたすら数学にかまけていたように、私も生涯哲学にかまけていたい。だから早く一戸建てに引っ越したいのだ。人間の声が聞こえてこないところで研究や執筆に専念したい。

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