「お笑い米軍基地2024」 @名護市民会館
2024.6.29(土)晴れ
梅雨が明け、連日晴れの日が続く沖縄。最高気温は30°を超え、本格的な夏が始まった。
この時期に、毎年楽しみにしているお笑いの舞台がある。FECまーちゃん(小波津 正光 氏)率いる「お笑い米軍基地」だ。「基地を笑え」をコンセプトに、沖縄国際大学へ米軍のヘリコプターが墜落した2004年の翌年、2005年からスタートし今年20年目を迎えたというこの舞台。当時、そのヘリの落ちた大学へ通っていた1人として、まーちゃんらの奮闘を無視できないでいる。
「人生はクローズアップで見ると悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ。」という喜劇王チャールズ・チャップリンの言葉から始まるオープニング映像。今年はそれが映画版スラムダンク風にアレンジされ、期待感を煽るような仕上がりになっていた。(次週開催の「お笑いトーク米軍基地」でその制作過程についての話を聞くことができた)
そして私が参加した名護公演では、新作コントと過去の傑作コント合計9本が上演された。中でも個人的に印象深いコントが「視力検査」。運転免許の更新に来た青年に対し、視力検査よろしく交通安全局の検査員が様々な画像を見せ「右」か「左」かを問う、というシンプルなもの。具体的な内容は書けないが、検査員役のまーちゃんのセリフの中に
「そうやって右か左かで判断して、沖縄の人たちが分断させられてはいけないわけさ。」
といったセリフがあった。右か左か。二極化を乗り超え大きな力と対峙していこうとするまーちゃんの思想が、このコントから垣間見えた気がした。
沖縄国際大学教授の前泊博盛氏が、あるネット番組でまーちゃんのことをこう語っていた。
「沖縄の問題を私のようなものが真面目に真剣に語ってしまったら、みんなが辛くてかえって悶々としてしまうけども、それを笑い飛ばすような力で語ってくれると、人々の心にも残るしすごく頼もしいとも思う。」
政治や社会を風刺する力がお笑いにはある。しかし、それを、沖縄に住む誰もが笑えるのだろうかと、ふとそんなことを考えた。自分のパートナーが米軍基地で働いていたりするならば、話は違ってくる。友人のお父さんやお祖父さんが沖縄に駐留する米軍人だというケースもそうだろう。ここ沖縄には、そんな話が溢れている。基地がなければ、自分は存在しなかった。基地がなければ生活できていない。そんな人々は、このお笑い米軍基地を笑えるのだろうか。そして、それを笑うことは、彼らを傷つけることにはならないのだろうか。
そのネット番組でまーちゃん自身はこう言っている。
「僕はお笑い米軍基地という舞台をやってて、それをやるとお客さんもいつも満員。チケットも売れるからいつまでも続けたいんですね。だからいつまでも米軍基地があればいいと思っているんですね。芸人としては。だけど一方、沖縄の人間としては、早くこの舞台ができなくなればいいと思っていて。相反する自分がいて。でもそれが人間らしいじゃないですか。それがいいとか悪いとかじゃなくてね。」
批判を恐れずに書くと、芸人であるまーちゃんは沖縄の米軍基地を利用し、それを生活の糧としている。つまり、まーちゃんは先に述べたような人々と同じような立場にいることを自身で認めている。基地がなければ、自分はここに立っていないと。
他国からの防波堤にされ、他都道府県と比較すれば安全性は格段に低いここ沖縄で、この80年弱の間、駐留する米軍人にレイプされ殺される女性が後を立たない。それだけじゃない。容認・反対で県民は分断させられ、海は潰され、水は汚され、産業は育たず人々は貧しいままだ。(もちろん沖縄の人々にも問題はあると思う)
それをただ単に笑えと言われると、そう単純な話ではなくなってくる。でもそんな可笑しな状況を笑わなければ、私たち沖縄人は潰れてしまうだろう。そしてそれを笑えなければ(若しくはそんな自分たちや他者を笑って許容できなければ)さもしい社会になってしまう。そうはなりたくないと、最後のコント「開放地」でまーちゃんが言ってくれていたような気がする。主人公のニセタ(若者)の言う「心のフェンスを取っ払おう」というセリフには、そういう意味が込められていたんだと思う。
米軍基地を笑うことで、誰かが傷つくなら、その誰かに私は伝えたい。あなたやあなたの大切な人々を笑っているのではない。この社会の理不尽さを笑っているのだと。そしてあなたの感じる理不尽さも全部ひっくるめ、一緒に笑える沖縄にしていこうと。お笑い米軍基地には、そのポテンシャルがあるんだと。そう伝えたい。