この印籠が目に・・・フヒッ・・・入らぬかって・・・デュフ
・イラストを一枚完成させた。これを明日の自分がなんて思うかに掛かっている。絵は一晩寝かせないと恥を見る。
・落書きがだいぶカジュアルにできるようになって楽しくなってきた。お絵描きは楽しい。そして、集中しているほうが楽しいことも分かった。今更過ぎる。
・時折、会話の際、相手の聞き上手っぷりに甘えてべらべらしゃべってしまうことがある。自分の話が「長い」って感じるか否かの境目は、話途中に「ちゃんと反応が返ってくるのだろうか・・・」って不安になるときだ。
今日はそれが多かった。自己愛強めの私は自分の話しかしない。ほかでもないこの日記がそう。
しかし、だからと言って「この場にいない他人の話」をたくさんする人も好きではない。その人を尊敬しようと腐そうと、発話の責任をその場にいない他者に預けているような気がして心許ない。
結局会話の正解って何~~!!!!
・人に嫌われても悠然と構えるような輩にはなれそうにない。嫌われたくないよう・・・って怯えながら、ゆるいコミュニケーションを繰り返していくのか、クソォォォォ!!!!
・今日はノートに書いた落書きから何となく自分が絵を描く時の頭の使い方がわかりそうな気がする。気がするだけ。けれど、具体的な目的意識が必要なのかもしれない。何を書こうか、というのは漠然としたものではなく、もっと具体的で小っちゃくていい。そこから生やして行くように絵を描くのもいいかもしれない。
こうやって日記を見返すと、抽象的なことばかりであまり具体性がないな・・・。
最近明確に輪郭を得つつある自分の「嫌い」の一つに、「定型句のやりとり」がある。その定型句の引用がtwitterとがで見るような使い古されたものや、流行の底の浅いミームとかだとなおのこと、体が生理的拒否を訴えるようになった。なんでそこまで嫌がっているのか考えたが、多分中高生の自分を思い出してちょっとイヤになるからかもしれない。自分もそうなのだ、流行の定型句、直近で観たアニメ・漫画のセリフの引用、それらを使い倒して情報量ゼロの会話をしてクスクス笑いあう。そこに明確な個々人とのやり取りはなく、ただその定型句が通じるか否かを踏み絵として利用しているだけに過ぎないのだ、そして、通じたらそれが安心の材料となり、ニヤニヤに表出される。中高生、正直今もあるかもしれない、そんな有様があまりにも薄っぺらくて、面白くなく、悲しくなってくる。人と会話しているのに、人と交流している気に全くなれない。特定のコードを右から左へ横流しするだけのやり取りはあまりにも欺瞞的で時間を無為にしすぎている。
もう少し、自分の言葉で話したい、そして相手だけの言葉が聞きたい。
いやもしかしたら既に聞いているのかもしれない。聞き逃しているのは私なのかもしれない。