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源氏物語より~『紫の姫の物語』2章-5
2章-5 弘徽殿の女御
――死ねばいいのに。
初めて、心の底からそう思った。あの女、死んでくれればいいのに。
そうしたら、あの方も目が覚めるはず。自分が重んじるべきは誰なのか、思い出されるだろう。
だからといって、わたくしが自分の口で、毒を盛れと命じたことはない。そんな下劣なことを平然と口にするほど、わたくしは落ちぶれてはいない。ただ、
「猫ではなく、あの女に薬を飲ませればよかったのに」
くらいのことは、そっとつぶやいたかもしれないけれど。
それを聞いた誰かが、気を利かせたかもしれない。あるいは、実家の父や兄弟たちが、何か手配したかもしれない。もしくは、他の女御か更衣の誰かが、忠実な女房に命じたかもしれない。
とにかく、あの女は原因不明の不調で寝付くようになり、どこがどう悪いというわけでもないのに、日に日に衰弱していった。咲き誇っていた花が、寒さに遭ってしおれ、枯れゆくように。
「お願いでございます。どうか、里に帰らせて下さいまし。母の元で休みとうございます」
あの女は幾度も、病床から主上さまに願ったという。その都度、恋する男はそれを退けた。
「退出はならぬ。病はここで治すのだ。医師もいれば、大陸渡来の薬もある。高徳の僧たちも付いている。治せないはずがあるものか。どうか、わたしを一人にしないでおくれ。宮中にどれほど女人がいても、わたしにとって、女はそなただけなのだ」
その言葉を人づてに聞いた時、わたくしは、はっきりと見切りをつけた。
何という愚かな男。頭も上がらぬほど病の重い女に、なお甘えようとは。実家へ帰してやれば、そこでゆっくり養生でき、持ち直すかもしれないのに。
そもそも、帝というものは、臣下の全て、民の全てに公平に慈愛を注ぐもの。その責務を忘れ、一人の女に溺れるような真似をするから、こういう結果を招く。いわば天罰。
わたくしは笑った。
もう何年もなかった、晴れやかな笑い。
愚か者は、その報いを受けたのだ。最も愛した者を、自らの愚かさのために失うのだから。
やがて、桐壺の更衣は死んだ。恋に狂った男は嘆き悲しんだが、天命はどうしようもない。残された息子は源氏の姓を賜り、臣下に降ろされた。
わたくしは勝った、はずだった。
あの人に代わって帝位に即いた息子が、間抜けのお人好しでなければ。その他大勢と同様に、頬を染めて光君を崇拝しているという、不愉快な事実がなければ。
だが、まあ、それはよいとしよう。わたくしの息子が間延びしているのは、まだ、苦労や苦難というものを知らないからだ。わたくしが大切に守り続けてきたことが、そういう結果をもたらした。
これがたぶん、わたくしの受けた罰。たとえ、直接殺したのでなくとも、更衣の死を願ったことは事実なのだから。
問題は、あの人がまだ懲りていないこと。次の帝には、藤壺の息子を立てるというのだから。
***
桐壺の更衣を失った後、あの人は長いこと悲しみに沈んでいた。忘れ形見の幼い子供くらいしか、心を慰めるもののない暮らし。わたくしももう、あえて近付いて慰めようとは思っていなかったから。
ところが、世の中にはお節介な者がいる。よりによって、あの更衣そっくりの美女を捜し出してきて、入内させたのだ。
あの人の喜ぶまいことか。さっそく女御の位を与え、藤壺の局に入れてのご寵愛。
今度ばかりは、意地悪したくとも、誰にも手出しができなかった。何といっても、先の帝の皇女という、高い身分の女だったから。
軽い嫌がらせ程度はできても、局に生きた蛇を放り込んだり、通り道に汚物を撒いたりという露骨な真似は、とても無理。お付きの女房たちもしっかり者が多かったし、あの人も用心深くなっていた。よこしまな行為があれば、下手人も黒幕も、ただでは済まなかっただろう。
(いいわ、好きなだけ夢中になっていなさい)
もはや、あの人が誰を寵愛しようと、どうでもいい。
でも、藤壺の女御が産んだ息子を東宮に据えたことだけは、許さない。
これでは、わたくしの息子に皇子が生まれても、そちらの血筋は帝位に即けないではないの。
どう繕ったところで、わたくしの息子より、藤壺の息子の方が可愛いことが見えているのよ。光君にそっくりという評判の、世にも可愛い息子がね。
『紫の姫の物語』2章-6に続く