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源氏物語より~『紫の姫の物語』1章-3

1章-3 紫の姫

 目についた食べ物を買い込み、近くの川原に持って出て、真昼の宴会にした。さっき食べたばかりのお兄さまは、まだ食欲がないと言うけれど、早くから起きているわたくしはもう、お腹がぺこぺこ。惟光これみつたちもそうですって。

 鮎の塩焼き、焼いてひしおで味付けした餅、塩をまぶして握った屯食とんじき蒲鉾かまぼこ、野菜の塩漬け、甘い瓜や無花果いちじく枇杷びわの実。

 涼しい風に吹かれて、川を見下ろす土手に座り、みんなで賑やかに食べるのは最高。邸の奥で几帳きちょうに囲まれ、何人もの女房たちに給仕されて、ただ一人黙々と食べるより、ずっと楽しい。

 お腹一杯食べると、竹筒に汲んでもらった水を飲み、岸辺に降りて、流れる水で手を洗った。ついでに市女笠を外し、草履ぞうりを脱いで流れに足を浸けてみる。冷たいけれど、気持ちいい。

 衣の裾をからげ、身をかがめて顔に水をかけていたら、

「何をなさいます、はしたない」

 と岸辺まで付いてきた少納言に叱られた。殿方の前ですねをさらすなんて、高貴な姫君にあるまじき振る舞い、ですって。

 でも、わたくしは、好きで宮家に生まれたわけではない。

 兵部卿ひょうぶきょうの宮であられるお父さまには、ちゃんと正妻である北の方と、そのお子たちがいらっしゃる。

 わたくしのお母さまは、ただの愛人。

 その愛人の死後に残った娘など、厄介者にすぎない。

 だからわたくしは、母方のお祖母さまの手元で育てられた。お母さまが早くに亡くなった時点で、もはや、お父さまとの縁は切れていたようなもの。

 その後、お祖母さまが都の邸で亡くなられた時だって、お父さまより早くわたくしを引き取ってくれたのは、他人であるお兄さまだった。お祖母さまが北山のいおりに身を寄せていた頃から、親しく出入りしていて、わたくしと一緒に遊んでくれたのを覚えている。

 お人形や絵草子のお土産を持ってきてくれたり、野原で花摘みに付き合ってくれたり。わたくしが衣をからげ、するする木に登るのを見て、宮中育ちのお兄さまは、びっくり仰天していたっけ。

 お兄さま自身も、早くにお母さま、お祖母さまと死に別れた身の上なので、心細い立場のわたくしのことを、

『とても他人という気がしない』

 と思っていたのだという。

 もっとも、お兄さまの場合、これ以上はないという、高貴な後ろ盾があるのだけれど。

 とにかく、孤児になったわたくしを自邸に連れ帰ってくれたのは、お兄さま。わたくしに学問を教え、そうこと琵琶びわの稽古をつけてくれ、季節ごとに最高の衣装をあつらえてくれるのも、お兄さま。

 だから、実家の宮家がどうのなんて、わたくしには関係ない。お兄さまの妹でいられれば、何の不足もない。

 そうしてお兄さまは、わたくしが元気一杯、好きなことで楽しんでいるのを見るのが好きなんですって。だったら、川で足を冷やすくらい、何が悪いというの。

「どうってことないわ、このくらい」

 わたくしは、少納言にも水をひっかけた。もちろん、ほんのちょっとだけ。

「おまえも水にお入り。気持ちいいわよ」

「とんでもございません」

「暑くないの?」

「年をとりますと、暑さは、それほど苦にならないものでございます」

 まだ、それほどの年ではないくせに。

 もっとも、若い女房や婢女はしためを大勢束ねる身としては、常に重々しく、隙なく振る舞わなくてはならない、というのもわかる。

 でも、だからこそ、からかってみたい気分にもなるというもの。

「市で見た野菜売りの女たちは、もっと身軽な格好で、すたすた歩いていたわ。涼しそうで、うらやましい。わたくしも、どうせなら、ああいう格好をしたいくらいよ」

 少納言は絶句していたけれど、膝から下くらい、風に当てても、水にさらしてもいいじゃないの。別に、溶けて流れるわけじゃなし。

「おまえの他は、誰も気にしないわよ。どうせここには、お兄さまたちしかいないのだし」

 すると、少納言は咳払いした。

「そのお殿さまが、一番困っていらっしゃいます」

「どうして?」

 お兄さまは土手に座ったまま、蝙蝠かわほりでやたら顔をあおいでいるだけ。惟光や良清よしきよは腹ごなしのつもりか、土手の小道をうろうろ行ったり来たりしているし。

   『紫の姫の物語』1章-4に続く

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