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源氏物語より~『紫の姫の物語』1章-1
1章-1 紫の姫
あんまりいいお天気なので、お兄さまの部屋を覗きに行った。空は青く晴れて、風がさわやか。お庭の藤や牡丹の花も、こぼれるように咲き始めている。
こんな日に、お昼近くまで格子を立て込めて寝ているなんて、人生の無駄遣いだわ。
「お兄さま、おはよう。いつまで寝ていらっしゃるの」
妻戸を開けて、ずかずかと奥まで入り込み、御帳台で寝ているお兄さまの肩を揺すった。
白い単姿で、薄手の衾をかけている。いつも髷に結っている髪は解かれ、枕の周りに乱れ散っていた。よその女の人のところでは、こんなくだけた姿は絶対に見せないのだろうけれど、ここは自邸だから。
「ねえ、起きて。素晴らしいお天気なのよ。外に遊びに行きましょうよ」
「んー、んん……」
「ねえ、お兄さまってば」
むにゃむにゃ言って、ごろりと伏せてしまった背中を、更にぐいぐい揺すった。
例によって朝帰りだから、眠いのはわかるけれど。
まったく、貴族の暮らしというのは、自然に逆らっているわ。どうせ出歩くなら、夜より昼の方が気持ちいいのに。
「ねえ、外へ行きたいの。遊びに連れていってちょうだい。行きたい!! 行きたい!! 行きたい!!」
ゆさゆさと、しつこく揺さぶっていたら、とうとう起きた。情けないあくび顔に、寝乱れたざんばら髪で。よその女の人が見たら、百年の恋も冷めるでしょうね。
「わかった、わかった……どこへ行きたいんだい」
お兄さまと一緒なら、どこでもいいのだけれど、とりあえずはお買い物かな。
「市よ、市に連れていって!!」
「はいはい」
「お約束よ。じゃあ、早くお食事を済ませてね」
お兄さまが起きたのを知ると、控えていた女房たちが、すぐ世話に取りかかる。洗面、着替え、食事。
わたくしはその間に、自分の居室である西の対に戻り、乳母の少納言に手伝ってもらって、外出用の支度をする。
市女笠から垂らす、むしの垂れ衣は、邪魔くさいから嫌いなんだけど。
人にわたくしの顔が見えたからといって、どうだというの。宮家の姫だなんて、触れ回って歩くわけじゃないんだから、お父さまの名誉を傷つけることにはならないと思うわ。
どうせ、いてもいなくてもいい、妾腹の娘なんだしね。
一番いいのは、男の子のようなさっぱりした狩衣姿で(夏は水干もいいわ)、髪をきゅっと束ねて動くこと。
最近は少納言がうるさくて、なかなか男装できないのが残念。わたくしがどんな格好をしようが、少納言以外、誰も気にしないのに。
***
それでも、お兄さまと一緒に目立たない網代車に乗り、二条院から外に出るのは気が晴れた。前駆も車副もなしのお忍びだから、お兄さまも着古した狩衣姿。
六条大路まで来ると西へ折れ、車を市の近くの道端で待たせる。徒歩になってしまえば、市の人込みに紛れるのは造作もない。
お供は馬で来た惟光と良清、それに車に同乗してきた少納言と、若い女房一人だけ。惟光たちの馬も、車を守る牛飼に預けていく。
市には、多くの人が出入りしていた。獣の肉や魚を焼く匂い、お酒の匂い、お香の匂い。古布を売る店、鏡や櫛や文箱の店、草履や円座や籠などの店、野菜や果物の店。
川で取れたての魚を売り歩く男もいれば、泥のついた野菜を運ぶ女もいる。どこかのお邸で売りに出したらしい、由緒ありげな古道具を並べた店もある。
もしかして、盗品も混じっていたりして。貴族の邸を襲う盗賊団の噂を、ちらほらと聞くものね。品物が盗まれるだけではなく、不運な女房がさらわれて行方知れずになったり、死体になって道端に転がっていたり、という恐ろしい話もある。
お兄さまだって、夜中の忍び歩きなんか、しない方がいいのよ。どうせ、太刀はお飾りなんだから。
惟光たちだって、いざという時、戦えるものかどうか。
遊びたかったら、こうやって昼間、わたくしと一緒に出歩けばいいんです。
いつもながら、市は面白かった。へべれけに酔った狩衣の男。薄汚れた水干姿の下人同士が、つかみ合いの喧嘩。子犬を追って、裾の短い衣を着た子供たちが駆けていく。
あの格好、冬は寒いだろうけれど、夏は涼しそう。
わたくし、ずるずるに長い袴は大嫌いなのよ。室内では膝でいざって歩くのが正式だなんて、誰が決めたのかしら。がばっと袴をたくし上げて、ずんずん歩けばいいのに。
髪も、長い方が美しいなんて、邪魔くさい。洗うのも大変だし、梳るのも、何段階にも分けての大仕事。寝る時に、髪箱へ納めておくのも鬱陶しい。ちょっと身動きしたら、すぐ引っ張られて崩れてしまうし。
昔の女たちは、身分が高くても、もっと自由な格好をしていたはずなのよ。野山に出て花を愛でたり、薬草を摘んだりして。
今の時代だって、男装していい、馬を飛ばしていい、髪も自分の好きな長さでいい、ということにならないかしら。
『紫の姫の物語』1章-2に続く