「常識の蓋」と「我が使命」

昨日から思考が様々に巡り始めて止まらなくなってしまったので、備忘録を兼ねて一度アウトプットしてみようと思います。
(上手くまとまるだろうか、、、)

大本を辿るとその始まりはおかると黒猫さんの参拝体験。お礼参りしたいなという漠然とした気持ちの後押しをしてもらう。
そして直接的なきっかけは昨日の短歌投稿後から。
光栄にもひろの様からコメントを頂け、その後改めて神社参拝の作法の記事を確認したりしていたのですが、そのままの流れで過去に投稿いただいた記事も併せて再度読み漁り始めました。

そして4月~5月頃の有料記事を購入していないことに気づき購入。
具体的には↓のあたり(引用に初挑戦)

💴 ウチのHP見て1ヶ月で、100万手にした方のお話(成功要因分析)|HIRONOMICHI🐧🎥っ〜💨

天才とはどんな生き物なのか? 意外な事実!|HIRONOMICHI🐧🎥っ〜💨

🐅 『虎の檻』 から1人の女性を助け出した話3|HIRONOMICHI🐧🎥っ〜💨

その頃の自身の状況は少々うろ覚えなのですが、確かホームページの解説と句の暗記に勤しみ満腹状態だったのでNote記事の投稿まで充分に目が通せて無かった気がします。
(というか関心が向いてたかどうかも定かでない)

また、今となっては誠に非礼の極みだったと反省してますが記事購入に対する心理的ハードルがかなり高く、度々購入を逡巡していたような記憶があります。
(神の絵も最初?マークが浮かんで実践するまで時間がかかった記憶)

そんなこんなで今になってこれらの記事を拝読した次第なのですが、内容が何というかもう、「これだ!」と求めていたものに辿り着いたような心持ちになるとともに、過去の記憶が触発されてあれやこれやとグルグル思考が巡り始めました。

そして徹夜に行かないまでも、深夜帯まで読みつ考えつの繰り返しでなかなか思考が止まらず寝られない。
今日の午前中も仕事に身が入らず隙あらば他の事が頭に浮かぶ状態。
(仕事そのものは小康状態なので支障はありませんでしたが、、、)

午後からは上司から仕事の用命があり少し思考が落ち着くも、業後にはこれは自分のためにもアウトプットした方が良さそうだと思い至り、帰宅後から執筆開始。

前置きが長くなりましたがそんなこんなで今に至ります。

諸々の思考を形に残すべく2つのトピックスに分けて書き連ねてみます。
自己満足の世界なため読みづらいかと思いますがどうかご容赦ください。

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■常識の蓋

短歌の件をきっかけに、もしかしたら今までは自身の能力を過小評価していたのかもしれないと思い至る。
いつから自分を卑下するようになった?

小~中学生の頃までは文武両道を志し、特にお勉強は校内順位トップ目指して頑張っていた記憶。性格の変な部分は当時からあったがそれも個性として比較的好意的に受け入れてもらえていたように思う。輝かしい想い出。

高校からは学力の優位性は消え、代わりに自身の変人的側面や人間関係を構築する力の無さがクローズアップされ始める。
(小→中学校とは違い、ゼロからの関係構築はほぼ初めての経験。人見知りとも言う。)
諸々の生きづらさを覚え始め、自己肯定感が失われるとともに「普通であること」を求め始めた最初の時期?家庭環境に不満を抱き始めたのも確かこのあたり。

大学時代、本格的に親元を離れた生活が始まり、サークル活動等で変人的側面が長所として機能するようになる。それに伴い成長の実感と充実した日々を経験できたが、すり減らした自己肯定感の本質的回復には至らず、その後の様々な挫折もあってか却って心の闇が深くなる(逃避癖も発症し長らく苦しむ。物事に取り組む意志が湧きづらくなる)。

紆余曲折あったが就活を始めるにあたり一時的に寛解し、社会人になってからも諸々楽しいこと・嬉しいことはあったのだが、何だかモヤがかかったようにスッキリとせず、行き場のない感情が心に横たわる。
「普通でいられたら楽なのに」という想いがなかなか晴れない。

超ざっくり人生要約するとこんな感じ。
そして「天才とは~」の有料記事を読み、上記の人生が「常識の蓋」の形成過程であったと自覚する。

天才ではないので、記事内容ドンピシャというわけではないのかもしれない。
しかし程度の差こそあれど、大別するなら変人側であるという自覚は昔からあった。
そして人間関係の上手くいかなさからか、次第にそれを厭い、隠すようになった。

今、その蓋が外れる兆しが見えた。
閉じられてきた可能性たちに目が向き始めた。

そもそもメッセージの受信に挑戦してみようと思うなんて、カタカムナを始める前じゃ到底考えつかない。
自覚の進んだ今でもちょっとこれまでとのギャップに戸惑い二の足を踏んでいる。

でも、なんだかわくわくする。
もしかしたら、もう少し自分の可能性を信じても良いのかもしれない。


■我が使命

視力回復体験でも少し書きましたが私は日本を愛しています。
現実世界で胸を張って宣言する自信はありませんが、自分の中では愛国心と認識しており、カタカムナをきっかけに確立したものだと感じています。

以前がどうだったかはあまり思い出せない。
ただ、ネット上で垣間見える日本と他国とのセンシティブな関係性にいつしか自然と目が向くようになり、様々に繰り返される暗い話題に当時も今も、心を痛めていた記憶がある。

希望は見いだせず、自分にできることもない。
ただ漠然と「なぜなんだ?」という想いが胸をふさぐ。

当然四六時中そんな状態ではないのだが、現在に至るまでにそれはことある毎に繰り返された。
目を背けることにもすっかり慣れてしまった。
カタカムナと出会ってからも解決することは無かった。

しかしカタカムナを実践する中で心境は徐々に変わり始めた。
現実を前ににただひれ伏すのではなく、「これにも意味があるはず、それはなんだ?」とそこに意味がある前提で少しずつ考えを巡らし始めた。

特にここ最近、模索する機会が増えていた最中、上記の有料記事を拝読した。

そこで見たのは神の道。
「あ、これだ。見つかった」「やっぱり、意味はあったんだ」「何で今まで見逃していたんだ!」という想いが胸に溢れた。

今まで時期尚早とバリアに弾かれていた?
今は受け入れる準備と解釈する用意が整った?

とはいえ具体・詳細な道筋はまだ見えてはいない。
でも方向性はあってた。つながった。
強い納得感がある。

明確には見えてなくても、考えようによっては、これから自分の成す様々な物事がすべて神の道につながっていくのかもしれない。

そうであるなら、なんと光栄なことであろうか。
なんと心躍ることであろうか。

焦らなくていい。可能性に溢れている。
胸高鳴る道は確かにある。
そこに希望はある。

大げさかな?
分不相応かな?

この一連の結論は私の自惚れなのかもしれない。
しかし仮にそうだとしても、この胸に覚えた高揚感は誰にも否定できない。

初めて自覚した、私の大切な感覚。

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以上になります。
とりあえず頭の中のことは大体吐き出せたような気がします。

今までの体験記は分析的・理性的な記述を心がけてましたが、今回は今のナマの感情に近い形で述懐しつつ、流れに任せつつ書き連ねた形となりました。
(なってるかな?前者後者ともに)

何となくそうした方が良い気がした。
もちろん推敲はしてますし今後も追記修正するかもですが、、、

いずれにしても自分は自分。
ありのまま。独自性。
時にはこんな形も悪くない。

受信モードはまだ意識的に実践はしてはいませんが、頭と眉間のポワポワの心地良さと寝不足の疲労感でよくわからない状態になっているのでもしかしたら普段よりは無心に近くなってるかもですね。
(自我20~30%ぐらい?)

今更ながら恥じらいも湧いてきたしこんな内容で投稿していいのかも正直判断つかない。

でもせっかく書いたし。
お蔵入りはもったいない。
ご飯も食べずノンストップで書いたんだから行くしかない!
これも貴重な経験だ。

今は直観を信じて、そこに意味があると信じて。


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