収斂
「ん、こんなところに……」
「……人?」
崩れかけた橋の下は、形を残している木版の屋根が雨粒を遮り、目前の川が流れる音は、周囲から気配を隠してくれる。 ところが、こうした場は往々にして、偶然によってその神秘さに水が差されるもの。
「すみません、先客がいたなんて」
後から現れた方が、襟をぎゅっと閉めて、その場を後にしようとする。 しかし、先客の女性は彼を呼び止めると、かわいた土と水溜まりの境目まで身体を寄せて、もう一人分の隙間を、橋下に作った。
「ほら、座れるでしょ」
「……どうも」 男は先客の好意に甘えると、座り方を試行錯誤した。
ようやくしっくりくる姿勢を見つけた男は、隣の女性が、やはり半身を濡らしていることに気がつく。
「そっち、冷たくないですか」
「別に……濡れたくらいじゃ何も感じない」
どこかおかしな返事をする彼女だったが、男は妙に納得したようで、そこから先は沈黙であった。
2人は互いに名前を聞くこともなく、ただ夜が来明けるのをじっと待っていた。 しかし、川の方に大きな流木が見えたところで、女の方が沈黙を破る。
「どこか行くの? その格好じゃ、あんまり目的があるようには見えないけど。」
女の言う通り、彼の服装は袖が破れっぱなしで、生臭さも感じる。
どこかから追われてきたのか、それとも絶望から逃げようと、宛もなく必死なのか……彼女は少しばかり自分を重ねた。
「……僕の旅の、意味は……他の人には分からないですよ」
「へぇ……それじゃあいつか死んじゃうね」
「……はは、そうですね」
そこからは、何故か会話が弾んだ。
女は、どこの森には樹洞が多いとか、どこの村は滅んでいて、良い空き家多いといった、野宿するに適した場所を、男に語り流した。 男の方はそれを聞くと、かろうじて作った笑顔で、それは良いとか、物知りですねとか答える。
一方、男の話は、川のどこがよく釣れるとか、そこは戦いが多いから危ないという内容を返す。女はそれを確かに頭の中にしまい込む。
気がつけばお互い眠っていて、女は水面に反射した陽光で目を覚ます。
起きてあたりを見回すと、既に男はいなくなっていて、代わりにちぎった布切れに何か書いてあり、丁寧にも、上から風に飛ばされないようにと石を置いていた。
『あなたも?』
女は書き置きの意味を汲むのに少し時間を要した。
しかし、程なくして納得したのか、布切れを剣の柄に引っ掛けて、橋下を後にした。
女が男に会ってからというもの、しばらく経つと、布切れは4、5枚程になっていた。しかし、ある日から中々その数が増えなくなったことを、女は気にしていた。男と教え合った場所を再び使う時、無意識に一人分の場所を開けていた自分にはっとすることもあった。
ところが、そのささやかな空虚感は、彼女が新しい居場所を見つける頃には、心の片隅に残る程度になっていた。
「今日はいい感じのがないな……」
彼女は筆と指で区切った風景を見てぼやく。
すると、視線の先に、数名の兵士が列になって現れた。
三、いや四人だ。 その中の1人が、ちらりと彼女の方を見る。それが誰なのか、女には分からなかった。しかし、誰かが通りがかったことは、わずかながら刺激になったようだ。
「たまには人が入ったのも描こうか。」
そう呟くと、咄嗟に強風から画板を守る。顔を上げた頃には、兵士たちは通り過ぎてしまっていた。
「あれ、飛んで行っちゃった……」
顔を上げた彼女は、剣の柄の布切れが無くなっているのを一瞥して、またさらさらと筆を走らせた。
その晩は、珍しく風がなかった。
「新しい絵か。よく描けているじゃないか、ミズキ」
「あ、ありがとうございます」
完成した絵を、女は師が営む酒場へと披露目に行った。師は麗しい紅色の髪を額で止めて、彼女の絵を覗き込むと、満足気に目を見張った。
「あの、師匠……名前も知らない相手なのに、忘れられない時って、如何しますか」
女は、恐る恐る尋ねた。いつもは風景だけが描かれた絵を酒場へもっていくのだが、今回のものには、数名の兵士の姿が加えられている。
妙な問いに、彼女の師は杯を何周か回すと、ことりとそれを女の目前に置いた。
「私に剣以外のことを聞かれても、困ってしまうな」
一言……女は不思議と、師が嘘をついていることが分かった。注がれた酒は、彼女にとっては水と変わらない。ところが、身体は存外その味を楽しんでいた。
それから、女はまた同じ場所で絵を描いてみた。すると、件の兵士が前を通る。彼女はそれを認めると、今度は画板を放り出して、彼の方へ飛んだ。
突然現れたかと思えば、細身な脚で身軽に着地する女に、兵士はきょとんとした視線を向ける。
「ねぇ、アンタ!」
「え、はい……」
女は、一度そこで声を止めた。そして、少し考えてから、得意げな顔で相手の顔を見つめる。
二人が互いの名前を知ったのは、女の新しい絵が完成した後だった。