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「やがて訪れる春のために」はらだみずき(新潮文庫)

表紙のうつくしさに魅かれて手に取った。読み物として秀悦でありながらも、認知症ケアにたずさわる者として、「症状」から人を見るのではなく、「人」をまず見たうえで、その人をとりまく環境やしんどさを見ていくことの大切さに気付かされた。

<引用>
認知症と診断されたハルが娘に向けて…「だれだって忘れることはあるでしょ」「じゃあ、あなたは忘れたことがないの?」「忘れることはそんなにわるいこと?」

<つぶやき>
一人暮らしの家に、「あの子が来るから」と言う。
●●さんのおすすめの物が欲しい。
生花を引きだしにしまい、枯らしてしまう。
…いずれもこの物語で綴られていることである。
認知症を診断されたハルの言動で、長らく一人暮らしをしており、
家族はどのような生活をしているのかをきちんと知っていなかった。

それゆえに、
「一人暮らしなのに、子どもが来るわけがない」「●●さんなんて人は近所にいない」=幻覚
「花を本来ある場所ではないところにしまい込み、それを忘れてしまう」
=収集癖(しまい込み)と記憶障害
ととらえてしまう。

物語を読み進めると、これらの言動は現実に起こったことと一致していて、幻覚でもなく、収集癖や記憶障害ではなかったことが分かる。
いったん診断がついてしまうと、それのフィルターを通して理解を深めようとする。認知症ケアにおいて、その症状を適切に理解して、それをその人の言動理解につなげようとする。それ自体は悪いことではない。
しかし「本当にそうなのか?」といったん距離を置き、俯瞰で物事(もしくは人)を捉えることの大切さも忘れてはいけない。
そう考えさせられた。

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