なぜ多様性が必要なのか?
題名:なぜ多様性が必要なのか?
近年、世界各地で「多様性」を重んじる風潮が見られる。それは単なる綺麗事であったり、それを利用せんとする企業の思惑であったり、政治的・法的な整合性の観点など、多様性を訴える意図は様々である。しかし、今では多くの人々がそれを唱えているが故に、「多様性を尊重しなければならない」という空気が生まれ、それを否定する者は悪であり、非道徳的だと糾弾されるまでになった。
一方で、多様性に意義を唱える者も少なくない。敬虔な宗教家、多様性を理解していない者、あるいは多様性によって利益を脅かされる者。変革には反対がつきものであり、何ら不思議ではない。だが、私が注目したいのは、多様性を否定する者だけでなく、それを「綺麗事」として賛同する者たちもまた、多様性を正しく理解していないのではないかという点である。
そもそも、多様性はなぜ必要なのか?その答えはダーウィンの『進化論』に記されている。「生物は生存に有利な方へと進化する」と述べられるが、その進化に必要不可欠なのが「多様性」と「淘汰圧」である。例えばキリンを例に取れば、首の長い個体が突然変異で生まれ、その特性が餌の獲得に有利に働いたため、従来のキリンが淘汰され、首の長い個体が生き残った。これが進化であり、その基盤となるのが「多様性」と「淘汰圧」である。
この仕組みは、人間社会という「第二の自然」においても例外ではない。人間は自然環境をある程度制御できるようになったが、その代わり、人間社会が淘汰圧として機能するようになった。社会に適応できない人間は孤立し、子孫を残す機会を失う。これが現代における淘汰の一形態である。
歴史的にも、社会の変化は淘汰圧として作用してきた。農業革命においては、狩猟が得意な者よりも、長時間労働に耐えられる者が求められた。スパルタでは、農耕を奴隷に任せ、戦闘力が重視された。そして現代では、集団作業よりも個人の創造性や主体性が求められる傾向が強まっている。このように、人間社会ではその時々の必要性に応じて淘汰圧が変化していく。
だからこそ、多様性は重要である。一見必要のない個体も、環境が変われば価値を発揮する可能性がある。槍の名手が現代社会で求められることは少ないが、災害でインフラが崩壊すれば、その技術は大いに役立つ。多様性を守ることは、未来における可能性を守ることであり、社会にとって重要な資産となるのだ。