2024.09.23

昨夜2時半頃に祖父が亡くなったが予定通り昼から仕事に行き、今朝はエアコン掃除のために片付けなどしている。(9時から業者さんがクリーニングに来てくれる予定だ)

明後日の式に備えてゆっくり休んでおきなさい、という母親の指示に従い そわそわしながらも体はリラックスしている。
なにか出来ることはないかと訊ねても教えてくれないので自分のことをしているしかない。

祖父が亡くなったのにあまり悲しくなく、その事実にあまり罪悪感を覚えないのは間違いなく学生時代に読んださくらももこのエッセイ『メルヘン翁』の影響だ。

それまでおじいちゃんとは無条件に尊敬と感謝の念をフレンドリーな態度で伝えながら接しないといけない存在だと思っていた。
だからあの真正面から身内の死を喜ぶ描写には、どこか許されたような慰められたような気持ちになった記憶がある。

祖父はたまに海外旅行に行ってはよく分からん山の写真がプリントされた木箱なんかをお土産にくれた。
風景写真の撮影が趣味で、たまに知らん滝の写真や高原の写真を見せられた。
こっちの反応がお気に召さないとヘソを曲げ「物を大切にしない奴にお土産は買わない!」とぶんむくれていた。

年を重ねて年々丸くなるかと思えばそんなことはなく、最近は書斎の小物を勝手に動かしたからと4才のひ孫を出禁にしたり、季節外れのフルーツが今すぐ食べたいと娘に百貨店を回らせるなどさらにパワーアップしていた。

そんな祖父なので体調を崩して入院になっても身内はそこまで悲観せず、祖母がお見舞い帰りに看板を指さして「家族葬だって」と無邪気に言ったのが印象的だった。
母も祖母もその都度、医療機関と相談しつつできる範囲の最善を淡々とこなしていた。


最後は家庭では改善できないレベルの栄養失調になって急速に弱っていった。
自分の舌が認めるものしか食べたくないと栄養食を拒絶したためだ。
生きるために掴まないといけない手を、ここが気に入らないと文句を付けて全部振り解いていってるなぁと思った。
ひ孫達が面会にくる前日に亡くなったのも祖父らしいなぁと少し感心してしまった。


4月に父方の祖母が亡くなった時、祖母宛に手紙を書いた。
大好きだった祖母との思い出や感謝を嘘なく綴った。

でも今回、もし祖父に手紙を書くとしたら何を書いたらいいのだろう。
今はまだポジティブなことは書けない。
いつか書けるようになるだろうか。



















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