参加:Chinatown Walking Tours - Bukit Pasoh Heritage Trail
URAのチャイナタウンツアー参加第二弾。今回はBukit Pasoh。スタート地点はURA本部。街中には日本人観光客は沢山いるのにこのツアーの主な参加者は二度とも欧米人やアジア系欧米移民の旅行者。無料だし、申し込み簡単だし、informativeだしほんとおすすめなのだ。
以下内容:チャイナタウンはもともとプラナカンの家族が多く住んでいたが、中国からの移民、彼らは多くは男性で独身、が増えるにつれ、賭博、アヘン窟、売春なとがはびこり治安は悪化した。そのためプラナカンの家族はチャイナタウン外へ引っ越していった。
英連邦政府は男性移民により偏りすぎた男女比是正のため、また失業率の高まりから男性の移民を制限した時期があり(1928年と33年) 、制限されなかった女性たち、中国広東の三水(sam sui) 地方から大勢の女性が移民し肉体労働を担った。彼女らは建設業に従事しシンガポールの発展を支えた。
Fairfield churchはもともと映画館があり、内部には螺旋階段がある。今でも中に入ることができる。その近くのこの建物(写真2枚目) は人力車ステーションで、ここで人力車夫としての登録などを行った。ちなみにこの建物のオーナーはジャッキーチェンである。
ショップハウスは主に1900年代初から同年代半ば頃まで建てられた。ショップハウスには中庭 (Air wards)があり、換気や雨水を集め貯めておく役割を果たした。シンガポールの天気は雨か晴れのみで、どちらの天候にも対応できるのが騎楼の屋根のある部分(Five-foot way ) である。ここは通路として設計されたが、オーナーはそのスペースを各種スモールビジネスに貸し出した。1フィート四方の小さなスペースも貸し出された。通路の天井部分は木でできており、小さな穴があり来訪者を確認することができた。家族と確認すると家族がドアを開けに降り、外部の訪問者だと男性が対応した。
細長い公園がナショナルパークに指定されているが、これは元々線路で、線路は港まで続いていた。ただあまり使われず2年でなくされてしまった。
会館(Clan house) は姓(1枚目)、職業(2枚目)、 趣味(3枚目)などの共通点から組織され会員を支えていた。この趣味は体操だったり、音楽などだ。しかし日本による占領時、あらゆる団体が解散させられ、また資料なども燃やさせられた。戦後そのいくつかの団体は復活した。この通りには多くの会館がある。怡和軒(写真4枚目)にはミリオネアしか入れないクラブが入っている。
1928年から建築の学校を出てないと建築物の設計ができなくなった。この建物(1枚目) はその学校を出た現地の建築士による設計であり、同じ人が設計したもうひとつは有名な「亜東」のポテトヘッドビル(2枚目) だ。岡州会館(3枚目) 、 二階は博物館になっている、一階には椅子とテーブルが並んでいる。