読書:インドネシア国家と西カリマンタン華人 松村智雄 著
「辺境」からのナショナリズム形成、とあるようにどのように辺境地域である西カリマンタンに住む華人達がインドネシアという国家の一部になっていったか、中国の僑郷、東マレーシア、シンガポール、台湾、インドネシアとの関係性のなかでそれが形作られる過程、またそのなかで西カリマンタン側もただ中央政府の政策を受け入れるのみでなく華人文化を残そうと積極的に中央の文脈を取り込みながら対応していった点、がとても興味深く描写されている。膨大な量の資料とインタビューからなっており、これが修士論文をもとにしたものであったとは、ただただ感心してしまう。
西カリマンタンは、辺境であったためにオランダ統治期、インドネシア独立後当初は明確に国家権力から統治を受けたことはなく、自分たちを外国に住む中国人と定位していた。そのため、西カリマンタン華人は新中国成立後、中国人してそれを祝い、一方で反共主義であったインドネシア政府からは、共産勢力と同一であるとみなされ不利な扱いを受けるようになる。華人=共産という固定概念のもと、華人はスハルト体制下において同化政策の対象となる。西カリマンタン華人はジャワ島のプラナカン華人と比べて中国南部の言語、出身地の文化を比較的保持している。西カリマンタン華人の歴史は18世紀中葉(オランダ勢力の影響が及ぶ前)から移住した客家人の集団が金鉱開発に関わっていた。その初期には、羅芳伯率いる客家人の集団が金鉱運営に携わり、自治的組織を形成した。これらの政体は植民地政庁も制御できなかったほどに政治的、軍事的権力を持っていた。金鉱は19世紀中葉に枯渇しはじめ、客家人は内陸部での農業(稲作、ゴム園、胡椒、コプラ)にも携わった。労働者としては男性が単身で南中国から移住し、現地の人との通婚が進んだ。オランダは独自の警備隊を持つ「公司」との戦争に明け暮れた。ポンティアナックには潮州系移民が定住し商業に関わった。彼らはシンガポールやリアウ諸島との交易も多く行っていた。西カリマンタン華人のなかにもシンガポールや中国に渡り高等教育を受ける中で、中国ナショナリズムを強く抱く人々が登場した。スハルト体制下においては、華人の文化、祭礼が制限を受けた。政治的な選択肢がなく、共産主義者の嫌疑ををかけられる恐怖と隣り合わせの華人は、専ら商業に勢力を傾けた。生活水準向上のためにジャカルタに移住する人も増加し、ジャカルタの西カリマンタン出身華人の数は膨れ上がった。1980年代には縫製分野で成功を収める西カリマンタン出身の華人が続出し、Tanah Abang地区の縫製業のかなりの部分を掌握するまでになった。西カリマンタン シンカワン市の2009年センサスデータによると、人口24万6306人のうち華人は49.6%であった。西カリマンタンでは1960~70年代初めには国立学校の数が非常に少なく、また華人は共産党との関係を疑われていたため、華人の多くは教育を受ける機会を逸した。華人の選択肢としては、国立学校に通うか、カトリック系の小学校に通うかであり、当時学校に通った華人のなかでは圧倒的にカトリック系学校を卒業した人の割合が多い。黄威康はインドネシアの宗教政策において法的根拠のない廟を、国家公認宗教である仏教組織として再定義することで廟の存続を図った。黄威康は友人らと協力し、廟組織の再編を図った。黄は1989年にサンバスの343の廟を統括する「トリダルマ仏教徒大連合」を設立する。この組織はインドネシアの全国的な仏教の連合団体であるWalubiを構成する一組織として位置づけられ、これによってそれまで地位が明瞭でなかったサンバス県の廟が仏教組織の建物として再定義された。(⇒これは、書籍「潮州人」のなかでタイの華人廟は僧を持たず故に仏教寺院ではなく、タイ仏教に寄進を行う、タイ仏教の外側を構成する要素として存在していることとと対比すると興味深い。)結果として、シンカワン周辺の伝統行事であるタトゥン行列は存続が維持された。西カリマンタン華人はスハルト体制の提示する政策をすべてそのまま受け入れていたのではなく、政治的与件を受容しつつ主体的に対応していた。西カリマンタンでは貧困と地元産業への就業機会の乏しさから1970年代はジャカルタへの移住が始まり、現在においてもシンカワン周辺の若者の間では人生の一時期、ジャカルタで就業することは主要なライフコースになっている。ジャカルタ北東部のAmpera地区、西部のJembatan Lima、北部のGlodokにも多くの西カリマンタン出身者が移住した。ポストスハルト期、華人文化に係る規制は撤廃され、華人でもあるシンカワン市のハサン市政による中華・ダヤク・ムラユの各民族の要素を取り入れたティダユ舞踊やティダユバティックが展開され、「三民族協和の町」というシンカワン表象の創出を試みたと言える。これにより華人文化もインドネシアの多様な文化を構成する一部分である、ことをインドネシア国内に向けて暗に主張することとなった。これらの活動はインドネシアの大統領の注目も集め、ジャワ宮廷からも表彰された。台湾出身男性とシンカワン華人女性の結婚は1980年代から増加した。国際結婚によりシンカワンと台湾との間の人の移動が頻繁になり特に台湾の客家系の華人との結婚が増えてくると、台湾のなかでも特に客家系が多い地域にシンカワン出身女性も移住し始めた。
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