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読書:潮州人―華人移民のエスニシティと文化をめぐる歴史人類学 志賀 市子 編著

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1. アイデンティティとは複層的なもの

"マレーシアの潮州人であるA氏と香港の潮州人であるB氏が、ビジネスパートナーであるからといって、「同じ潮州人だから」と短絡的に決めつけることはできない。彼らの行動原理をすべて華人や潮州人のt特製と結び付けて論じようとするのは、「観察される全ての現象を専ら『華人(学)』へと回収させようとする」悪しき「循環論」として批判されるのが落ちである。"とあるが、確かにその通りと思う。こと日本人は華人間の裏のネットワークのようなものへの脅威と期待を少なからず持っているように思う。

韓愈や三山国王は潮汕地域では潮州人の代表的な信仰対象だが、台湾では客家のそれとなっている。東南アジアでは潮州系が信仰する宋大峰祖師は台湾では影も形も見られない。同じ潮州人といっても地域によりその特徴は異なっているのだ。一人の人間は潮州語、信仰など複数のアイデンティティから成り、それを出したり出さなかったりしながら関わり合っている。本書はそのような潮州人を(これは潮州人に限ったことではないが)複層的な観点で理解するのに役立つものと思う。

2. 国内の混乱と海外への移民、客家との関わり

潮州人は国内の混乱・戦乱(村落同士の機闘、海賊、疫病、国共内戦)から逃れ、生きるために台湾、東南アジア各地へ移民していった。

台湾では福建、広東のカテゴリの間で、地理的には広東、言葉は福建に近いという存在であり、潮州系の人々が台湾においてひとつのエスニック集団として認識されづらい要因ともなったし、潮州人たちも同じ広東籍である客家とは異なるという意識を持った。マジョリティーである福建系に対する客家系の民族運動も潮州人のその意識を高めるきっかけとなった。信仰においては、もともと潮汕の信仰対象である韓愈が客家文化の特色を表す信仰として地方政府と客家団体によって支えられている。

ベトナムでは潮州府の潮州系、客家系は潮州系の義安会館に所属していたが、両者の対立により客家人が分離・独立し、ベトナム崇正会を設立した。今でも関帝廟の左右にそれぞれ義安会館、ベトナム崇正会が位置している。私見であるが、上記の村落同士の械闘の時代と、その後背地にある客家の円楼や、囲龍屋と呼ばれる家を半円形の壁で囲った伝統住居などはその時代背景を共有しているのではと思う。

僑郷や移民先で争いの絶えなかった潮州系・客家系であるが、客家のものと言われる円形土楼は潮州地域でも潮州 潮安区や饒平県で見ることができるし、そこに住む全員が潮州人であることも珍しくないと筆者が指摘するとおり、実際には客家文化と潮州文化は共通点、重複している部分が多いのだと思う。距離的に近くまた共通点が多いほど争いごとが起きやすいというのは世の常なのだろうか。

3. 宣教師の果たした役割

アヘン戦争終結後、欧米の宣教師が中国で布教活動を開始した。そのなかで、広東省で言語や習俗の異なる人々が対立し合うのを目の当たりにした宣教師はヨーロッパの民族概念を導入して、広府人、潮州人、客家といった集団に分類した。とのことであり、宣教師の果たした役割は大きいことがわかる。1840~1860年代、言葉も様々で、また村落同士対立し合うなかへ、外見も大きく異なる西洋人が布教に回ったことは相当な困難が伴ったであろうと察する。住民も過酷な生存競争のなか、利用できるものは利用しようと、対立する村落がそれぞれ異なる宗派につくこともあったとのこと。潮汕地域の軽工業生産品であった刺繍も米国のバプテスト教会のメンバーによって導入されたとのことで、相当に粘り強い努力があったことが伺い知れる。

4. 東南アジア各地における儀礼と潮汕地域との関わり

筆者が述べているのは、潮州、香港、タイ、シンガポール、マレーシア、ベトナムの潮州系念仏社における功徳系法事の儀礼は驚くほど共通しているということ、標準的な儀礼知識を身に付けた技能職能者(経師や楽師)が持続的に供給されてきたことによって可能であったということだ。移民後も継続的に潮州との繋がりが維持されてきたのだ。一方、善堂について、シンガポールで発展した団体が、潮州の元の堂に寄進をしたりと、必ずしも常に潮州が文化・伝統を維持できない局面もあり、相互が関連しながらそれらを作り上げてきたことが伺える。そして、潮州文化の特徴として、葬儀や法事における儀礼、日常の信仰といった「神縁」が挙げられておりこれも、前述の複層的な要素の大きなひとつとなっているのだと思う。

5. タイにおけるマジョリティーと善堂の役割

タイでは潮州系は圧倒的マジョリティーとなっている。これは上記よりもっと前の時代であるがタイでは潮州人とタイ人の2世であるタークシン(鄭信)がトンブリー王朝を開いた、そのため潮州人が多く移民し、また王室関連の仕事を得たことによるとのこと。タイでは1950年代から1970年代まで軍による権威主義体制が続き、また反共政策により華僑・華人の同化政策が進められた。タイでは潮州文化の担い手がタイ人になっていることがその特徴である。タイでは潮州系の善堂が大きな役割を果たした。報徳善堂は、慈善活動から、現在では病院、レスキュー隊を組織して社会におけるセーフティーネットとして機能してきた。善堂が政府に替わって救急救命活動を行ってきたことが報徳善堂がタイの人々に広く知られるようになった大きな要因にもなっているとのこと。タイの善堂は宗教法人ではなく、一般社団法人や財団法人として登録されており、また僧はおらず、自己完結性を欠いている。むしろ、自らは慈善活動を行いつつ、寄付を集め、国が公認するタイ仏教の僧を儀礼に招いたり、寺院に寄進したりしてタイ仏教のシステムに包摂されている。これは大変興味深く、また自身がシンガポールで多く目にする僧のいない善堂を外部の者が理解するのにも役立つものと思う。

潮州・汕頭は海外と後背地の潮州の村落、さらに奥の客家の村落との相互関係のなかで発展してきたのだと思う。善堂においては海外と潮汕が繋がりを持ちながら相互に支援を行ってきた。潮州人の特徴のひとつは葬儀における儀礼、信仰といった「神縁」であり、特にタイにおいては慈善活動、葬儀等の儀礼、タイ仏教に包摂されることでタイ人に広く溶け込んでいった。後半部分が善堂の話がメインで少し難しかったが、総じて潮州人を特定のいくつかの側面からの理解を促進させてくれたように思う。

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