読書:華人社会がわかる本 山下清海 編著
世界各地の華人社会・華人街についての概要がまとめられており、全体を理解するのにとてもよい。日本においては、横浜・神戸・長崎に加え、新華僑の住む池袋・川口芝園団地まで取り上げられており日本の華人社会の外形を捉え、これらを通し老華僑・新華僑の比較も可能となっている。
華人の大量移住は、アヘン戦争(1840~42)語である。アヘン戦争敗北による主要港の開港が中国人を外の世界へと押し出した。中国では華人の故郷を僑郷と呼ぶ。華僑・華人のグローバルな経済活動は家族主義や多角経営などを特徴とし、移民経験に基づく家族や親族の分散を背景とする。(実際に東南アジアの企業をみてみると、それが華人の作った財閥グループに属するものが多い。また、都市開発、公共分野など国の重要な産業をも担っているものもある。)この書籍では、日本の華人社会についても述べられている。華人全体を統括する自治組織・中華会館が、横浜(1873年)、神戸(1893年)、函館(1913年)に成立していった。建物が現存するのは函館のみである。戦後、自治行政的機能は新たにできた華僑総会が担い、中華会館の機能は関帝などの民間祭祀、墓地管理・運営、葬儀の執行に縮小したが、中華街とともに、民族文化伝承の役割を担っている。中華街の振興を図る目的で、横浜では1986年、神戸では1987年から春節祭が、長崎では1987年からランタンフェスティバルが行われるようになった。これらは、一度すたれてしまったが、近年になって復活したものなのだ。もともと中華街の中国人は、開港当時、日本語がわからなかった西洋人付きの西洋の言葉や商習慣に通じまた漢字で日本人と筆談ができる買弁として大きな役割を果たした。日本の華人の特徴として、第一次産業に従事する者が存在しないこと。日本では華僑の活動範囲が居留地・雑居地に限定されていたことにより、従って東南アジアに見られるような鉱山やプランテーションの労働者として肉体労働に従事していたのとは状況が異なる。結果として、日本では居住国の人口に対し華僑・華人人口が少なく、自分達のみで経済活動が完結せず、圧倒的多数の日本人に取り囲まれながら生活してきた。広東料理店の「順海閣」は、当時横浜中華街には海員が多かったことから、順風満帆・航海安全を祈ってそのように名付けたという。(こういった目で店名を見ながら横浜中華街歩きをするのも楽しいだろう。)また、乾物を扱う海産物雑貨商「新合隆」のガラス扉にはGROSERY SEN HAP LOONと書かれており異国情緒・広東人の店であることを感じさせる(これは2014年に前回横浜中華街巡りをした際にたまたま写真に撮っていた。)各国の華人の職業というと、「三把刀」と表現される。いずれも刀を使う、理髪、料理、洋裁だ。神戸と横浜の中華街にも特色る。横浜では国慶節(10月1日)と、双十節(10月10日)の両イベントがあり、大陸系支持・台湾系支持派がその盛大性を競う。神戸ではこうしたイベントは見られない。横浜の中華学校も1950年代に「横浜山手中華学校(大陸系)」、「横浜中華学院(台湾系)」に分裂したが、神戸では神戸中華同文学校では両派の子息が学ぶ。これは、協力し合える度量、政治への無関心な気風があるからだという。神戸にある諏訪神社は華人の信仰を集め、中国式に跪いてお祈りするための台が置かれている。また、神戸にある松尾稲荷神社も華僑の信仰を集めている。これは、「まつお」が媽祖の中国語の発音「マーツォ」に似ているから、という説が有力だそうだ。長崎ちゃんぽんは、中国福建省福清から長崎へ渡ってきた若者が「四海楼」を創業したことによる。言われてみると福建省の「甫田」という地域の名前を関した福建料理店がシンガポールにもあるが、そこで出される麺と長崎ちゃんぽんはとても似ている。「ちゃんぽん」は福建語の「吃飯(じゃっぷん)」からきているという説も言及されている。韓国でもちゃんぽんは言うし、マレー料理でもChampurというのはあるし、沖縄料理でもチャンプルはあるし、広域的な繋がりがありそうではある。本書によると、長崎ちゃんぽんのルーツは福建料理の「湯肉絲麺」である、とのことだ。本書ではこの湯肉絲麺は豚肉、椎茸、筍、葱、などを入れたあっさりしたスープとある。それに、長崎近海で取れる海産物、蒲鉾、竹輪、カキ、小エビ、豚肉、モヤシ、キャベツを入れたとあるが、前述のとおり個人的にはもともと福州にあったものを長崎の食材で再現したものなのではとも思う。新華僑とは1972年の日中国交正常化以降、特に1978年の中国の改革開放以降に留学生・就学生として来日後、日本で就職・創業し、永住居留権を得て定住した中国大陸出身者を指す。川口の芝園団地についても触れられている。毎年公民館では春節晩会が開かれている。芝園団地には高学歴技術者の新華僑が多いそうだ。芝園小学校では、2003年4月の入学者34人に対し、うち4割近い13人が中国籍であったとのこと。川口市教育委員会は芝園小学校に日本語教師を派遣し、日本語教室を設けている。芝園団地に住む高学歴の新華僑の親たちは子供に対して非常に教育熱心であり、結果として芝園小学校の中国籍卒業生の多くは私立や国立の中学校に進学している。カンボジアの華人社会ではタイ同様潮州幫が最多(全体の約8割)となっている。韓国では政府の締め付け政策や社会での差別待遇により華人の経済力は衰退し、多くの富裕層が新天地を求めてアメリカやカナダ、オーストラリアなどに移住していった。「韓国は世界で唯一華人が成功しなかった国」といわれるゆえん、とのこと。確かに中国系で親戚がが韓国におり、米国に学んだ知人もいる。パプアニューギニアは1975年までオーストラリアの統治下に置かれており、オーストラリアとの関係も深い。パプアニューギニアの華人社会は、東・東南アジアやオセアニアにおける他の華人社会と様々な関係を持ち、国家の内部だけでは完結していない。華人の国際的なネットワークの交差点としての意味合いが強い。上海の正大広場はタイのCPグループが開業させた。