書籍 「海域アジアの華人街 泉田英雄 著」を読んだ。2008年以来、16年振り2度目だ。前回の記事は下記を参照:
読書:海域アジアの華人街 泉田 英雄 著|LiveinAsia (note.com)
本書籍は華僑・中国人達が東シナ海沿岸部や中国南方沿岸部の都市で築いた華人街、日本人の考えるいわゆるチャイナタウンよりも大きな概念、を建築の専門家の視点から、個々の建物のみならず街全体、更には海を跨ぐ大陸と南シナ海沿岸部との関係性、といった空間全体で華人街を捉えている。
個々の建物については場所による特徴、そのような建築様式に至った歴史背景が説明されている。また、華人街のなかにおける関帝廟や媽祖廟、土地公の位置関係といった街全体における空間、中国大陸とインドに挟まれた立地であることや華人街に欠かせない媽祖廟や関帝廟と中国の朝廷との関係性といった海をまたぐ大きな広がりを持つ空間についても整理されている。
実際にシンガポールで見るショップハウスは隣接する建物との間に熱いコンクリートの壁があり、かつ張り出した設計になっているのがわかる。
とあるが、シンガポールのショップハウスでも溜めておいたゴミや排泄物を回収するための裏路地を確認することができる。
ここから、今のシンガポール Telok Ayer Street、Amoy Streetのあたりが華人街として最も古く、その次に今のチャイナタウンのあるあたりが華人街となったことがわかる。
方言集団と職業、またいわゆる「推し」の対象となる神様はそれぞれ特徴を持っており、その地域における言語集団によりおかれる廟や廟に祭られる神様は異なったのだろうと思う。ちなみにこの書籍によると、関帝廟本堂の棟の上や門の上には相対する龍が乗り、関帝を守っているそうで、確かに横浜中華街の関帝廟もそのようであった。
とあり、土地公はその祠、廟の格式度合により、このような段階があること、それらが同じものを祭っていることは知らなかった。ちなみにこれは、シンガポールでの街歩き時にたまたま出会った「福徳正神」だ↓。
ちなみに私自身が実際に泉州に行った際、泉州の中心部ではなかったが、泉州から南方へ行った永寧古城というところにこのような城隍廟はあった。
記載のとおり海峡植民地の華人街は英国による統治の際の都市計画規則の影響を大きく受けたことがわかる。一方で、海峡植民地ではなかった台湾、中国南方沿岸部にも連続庇下空間が形成されていることはとても興味深い。
とあり、オランダ人がどんなに街区を美しくしようとしても、華人による仮設の住居や露店が次々とできて街路景観が乱されてしまうとのことで、与えられた環境のなかで逞しく生きる華人の強さが出ているようで為政者ではなく読む側としては微笑ましくも感じる。
このような状況に対しラッフルズはシンガポールにおいて、統一性とできるだけ多くの室内空間を確保するためのきまりを1822年シンガポール都市計画において定めた。これにより、連続したアーケードが形成されるようにし、商売人がここを臨時に不法占拠したとしても路上には及ばず、またアーケードの列柱が規則的な景観を演出したそうだ。熱帯の強い日差しや降雨を避けること以外にもこのような、景観も重視したい英国植民地政府側と華人商売人とのせめぎあいによる産物という側面もあったことはとても興味深い。