見出し画像

読書:海域アジアの華人街 泉田 英雄 著(16年振り2度目)

書籍 海域アジアの華人街 泉田英雄 著

書籍 「海域アジアの華人街 泉田英雄 著」を読んだ。2008年以来、16年振り2度目だ。前回の記事は下記を参照:
読書:海域アジアの華人街 泉田 英雄 著|LiveinAsia (note.com)

本書籍は華僑・中国人達が東シナ海沿岸部や中国南方沿岸部の都市で築いた華人街、日本人の考えるいわゆるチャイナタウンよりも大きな概念、を建築の専門家の視点から、個々の建物のみならず街全体、更には海を跨ぐ大陸と南シナ海沿岸部との関係性、といった空間全体で華人街を捉えている。

個々の建物については場所による特徴、そのような建築様式に至った歴史背景が説明されている。また、華人街のなかにおける関帝廟や媽祖廟、土地公の位置関係といった街全体における空間、中国大陸とインドに挟まれた立地であることや華人街に欠かせない媽祖廟や関帝廟と中国の朝廷との関係性といった海をまたぐ大きな広がりを持つ空間についても整理されている。

(ペナンについて)1827年にシンガポールとマラッカとともに英領「海峡植民地」を形成し、頻発する火災の教訓を生かして1832年、建築規則によって市街地建物をすべて耐火造とした。

書籍 海域アジアの華人街 泉田英雄 著

実際にシンガポールで見るショップハウスは隣接する建物との間に熱いコンクリートの壁があり、かつ張り出した設計になっているのがわかる。

シンガポールでは1920年代から30年代にかけて防火と公衆衛生のための都市改善事業が実施され、下水道や裏小路が整備された。

書籍 海域アジアの華人街 泉田英雄 著

とあるが、シンガポールのショップハウスでも溜めておいたゴミや排泄物を回収するための裏路地を確認することができる。

1819年、ラッフルズによるシンガポール建設のかけ声に誘われて集まってきた南洋華人たちは、それがどれほど発展するか想像がつかないままに、マラッカやペナンの立地と空間配置のやり方を踏襲して海岸近くに急遽居住地を開いたことが想像される。しかしながら、天福宮の背後には丘があるため居住地の発展性に乏しく、更に1822年の都市計画によって華人を含むアジア人達の居住地はシンガポール側右岸後背地に指定され、天福宮周辺の居住地は初期の姿のまま取り残されることとなった。

書籍 海域アジアの華人街 泉田英雄 著

ここから、今のシンガポール Telok Ayer Street、Amoy Streetのあたりが華人街として最も古く、その次に今のチャイナタウンのあるあたりが華人街となったことがわかる。

関帝は、よく知られているように『三国演義』に登場する武将、関羽を神格化したもので、算術にも優れていたことから商売繁盛の神として商人や職人の間で信仰されるようになった。
最も多く海外進出した福建人の中には承認も職工もいたが、南シナ海沿岸では漁業を営んだり、物産を海を隔てて取引することが彼らの主だった生業であった。
代わって広東人は、年内に定住して品物を売買し、飲食店を営み、また家具調度品などを製作するなどのサービス業を得意とした。そのため彼らにとって商売繁盛の関帝の方がありがたかった。

書籍 海域アジアの華人街 泉田英雄 著

方言集団と職業、またいわゆる「推し」の対象となる神様はそれぞれ特徴を持っており、その地域における言語集団によりおかれる廟や廟に祭られる神様は異なったのだろうと思う。ちなみにこの書籍によると、関帝廟本堂の棟の上や門の上には相対する龍が乗り、関帝を守っているそうで、確かに横浜中華街の関帝廟もそのようであった。

横浜関帝廟 本堂の上の龍

土地公(土地爺)は居住地の陰陽をつかさどる神で、正式には福徳正神と呼ばれる。南洋華人街では媽祖廟と一対となって居住地の反対側に置かれ、この二つの祠堂を結ぶ通りの両側に居住地が開かれた。ペナンやホイアンのように住民が多い場合に2、300メートルも離れることもあったが、それ以上離れることはなく、これが居住地としてまとまりのある最大の規模と考えられる。土地公は大樹の根本の小祠であったりして、単純で素朴な構造物の場合が多い。土地公から福徳祠へと格式があがるにつれて立派な建物になり、最上位の格式の城隍の場合、台湾の鹿港、澎湖、台北などのように、大きな門をくぐり、その先に祠堂の建築が並んでいることが多い。

書籍 海域アジアの華人街 泉田英雄 著

とあり、土地公はその祠、廟の格式度合により、このような段階があること、それらが同じものを祭っていることは知らなかった。ちなみにこれは、シンガポールでの街歩き時にたまたま出会った「福徳正神」だ↓。

シンガポールの福徳正神 ちなみに地図には載っていない 

しかし、大陸側では、1990年代に私たちが調査した際、地図上にその存在が示されていても、文化大革命の際に取り壊されてしまったのか、福州、泉州、厦門、潮州、広州では城隍廟を見つけることができなかった。タイのバンコク、ソンクラーには城隍廟が存在するが、そこの広東系華人たちが大きな力を有していたことが想像される。

書籍 海域アジアの華人街 泉田英雄 著

ちなみに私自身が実際に泉州に行った際、泉州の中心部ではなかったが、泉州から南方へ行った永寧古城というところにこのような城隍廟はあった。

泉州 永寧古城 城隍廟
ちょうどシンガポールの友好関係にある廟が来訪したタイミングのようだった
泉州 永寧古城 城隍廟
泉州 永寧古城 城隍廟 東南アジア各国、特にフィリピンからの寄付が多くあった

ペナンは、シンガポールよりも30年ほど早い1789年に都市建設が始まったが、現存する街屋は連続歩廊の有無から19世紀後半以降に建てられたものであることがわかる。マラッカで見られたように、華人街屋には庇下空間あるいはポーチは存在していたが、公共のために連続化するのは19世紀末に全「海峡植民地」に都市計画規則が施行されてからである。
建物は何度かの火災を受け、19世紀末に建て替えられているため、当時のイギリス海峡植民地の都市計画・建築規則が適用され、連続庇下空間=アーケードが設置された。

書籍 海域アジアの華人街 泉田英雄 著

記載のとおり海峡植民地の華人街は英国による統治の際の都市計画規則の影響を大きく受けたことがわかる。一方で、海峡植民地ではなかった台湾、中国南方沿岸部にも連続庇下空間が形成されていることはとても興味深い。

インドネシア・マレイシア語では、「カキ・リマ」、南洋福建語で「五脚基」、そして海峡植民地英語で「ファイヴェ・フィット・ウェイ」と呼ばれ、みな五つの足(脚)あるいは5フィートを意味する。

籍 海域アジアの華人街 泉田英雄 著

(ペナンについて)中規模と大規模の街屋のファサードは、ヨーロッパ建築のスタッコとタイルによってきれいに飾られている。このタイルはほとんどが日本製で、1930年代イギリスのものに代わって、愛知県に本拠点を置く佐治タイルが世界の装飾タイル市場を席巻した。

書籍 海域アジアの華人街 泉田英雄 著

(バタフィア=ジャカルタについて)植民地都市は、17世紀のオランダ人為政者にとって本国の美観を再現すべき場所であったが、そこの主たる住民である華人移住者にとっては簡易な商売をやったり、都市サービスを提供する舞台であり、サバイバルのための場所であった。

籍 海域アジアの華人街 泉田英雄 著

とあり、オランダ人がどんなに街区を美しくしようとしても、華人による仮設の住居や露店が次々とできて街路景観が乱されてしまうとのことで、与えられた環境のなかで逞しく生きる華人の強さが出ているようで為政者ではなく読む側としては微笑ましくも感じる。

このような状況に対しラッフルズはシンガポールにおいて、統一性とできるだけ多くの室内空間を確保するためのきまりを1822年シンガポール都市計画において定めた。これにより、連続したアーケードが形成されるようにし、商売人がここを臨時に不法占拠したとしても路上には及ばず、またアーケードの列柱が規則的な景観を演出したそうだ。熱帯の強い日差しや降雨を避けること以外にもこのような、景観も重視したい英国植民地政府側と華人商売人とのせめぎあいによる産物という側面もあったことはとても興味深い。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?