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東大嗅覚コンテスト
今年も嗅覚コンテストが開かれる。(タイトルに大学名を入れたことには読む人が増えるかなということ以上の意味はないです。)
毎年各大学で嗅覚の鋭い人を集めて誰が一番嗅覚が鋭いかを競うコンテストがある。特に慶應や青学は嗅覚の鋭い人が多いことに定評があり、学外からもかなりの注目を集める。
大学間の交流もあり、毎年準備期間は盛り上がるし、結果発表は文化祭のメインイベントである。
候補者はTwitterやInstagramを駆使して個性をアピールし、投票を促す。最近ではライブ配信も大人気。一番投票が多かった人が見事その大学で一番嗅覚が鋭い人としての栄誉を得る。
このコンテストを運営しているのは大体コックさん研究会という団体である。果たして本当にコックさんを研究しているのかはわからない。
ちなみにこのコンテストに出るほど嗅覚の鋭い女性はアナウンサーになることが比較的多い。嗅覚が鋭いこととニュースを読むことになんの関連があるかは謎である。
嗅覚の鋭さで人を判断しないって、建前ではなってるけど本当はそうじゃないなんてことみんな気付いてる。嗅覚が鋭いかどうかなんて一瞬で判別できることだから人生のほとんどの局面で嗅覚の鋭さは影響してくる。恋愛もバイトも就職も旅行も交友関係も、その他たくさんのチャンスも嗅覚の鋭い方が得をする。特に女性は嗅覚の鋭さが上位0.001%くらいに入れば嗅覚のよさだけでお金を稼いで生きていける。
才能を生まれつきの差だとすれば嗅覚の鋭さは才能がとても大きく関係する。もちろんいろいろな努力はあるけれども。
でもこの才能のある出場する人たちは言う。「活動を楽しみたい」「成長したい」「自分らしく頑張る」「恩返ししたい」
誰も言わない「俺は俺が一番嗅覚が鋭いと思う、もしそう思ったら俺に投票してほしい、学校で一番嗅覚が鋭いって認められたい」とは。
もう少し大胆になろう。
誰も言わない「私には才能がある」とは。
自分で才能があるとわかってるくせに才能があるとは決して言わない。わかっているくせにね。
踊ります。歌います。
それを見てもらえるのは嗅覚が優れているからでしょう。
「美味しそうなスパゲティ!」(見て私嗅覚鋭いでしょ)
「小さい頃の僕です!」(どう?昔から嗅覚鋭かったんだよ)
決して言わない、才能があるとは。
「昔はこんなに嗅覚鋭くなかったんですけど、頑張ったらこんなに嗅覚鋭くなれました!」(証拠画像付き)
決して言わない、才能があるとは。やめてくれよ本当に。
偉い人が言ってた。「今どき嗅覚の鋭さだけで決めるコンテストなんてないよ。みんな自分らしさを出して頑張ってるの。」それは一部は正しいでしょう。
でも才能が土台じゃないの。才能がない人を目の前にしてそのセリフが言えますか?そもそもあなたが才能のある1人じゃないですか。凡人の自分らしさに何の意味があるっていうの。
よくしていただいてる先輩で嗅覚コンテストに出てたことがある方がいらっしゃる。大好きで素敵な先輩。その方が期間中どれだけ頑張ってらしたか、どれだけ悪口を浴びて辛い思いをされたか知っている。そんな姿を見て私も応援していたし投票もした。
でも、でも、それも才能の上なんだよ。これは事実かは知らないよ、否定してもいいよ、でも私はそう思っている。嗅覚コンテストに関しては才能がまずあって、才能がまずあってこその努力なんだよ。ある程度までは上にいけるかもしれないけど、私は絶対にコンテストには出られない。なぜなら才能がないから。私がどんなに努力してもコンテストに出られるほど嗅覚が鋭くはならない。
そして、本当は、本当は、才能のある人は才能のない人を心の中で見下してるんだと思う。見下してるという言葉が強いとしても、才能の無い人が努力してるのを見ても負ける気はしないんじゃないかな。どうせ自分が勝つと思ってるんじゃないかな。追いつかれそうになってもすぐ突き放せると思ってるんじゃないかな。
心の中のことだから外に出してこない限りそれについてはわからないし、全く悪いとも思わない。自然と湧き上がる感情の一種だから。
わかるわかる、こう言うとひがみとか嫉妬って思うよね。才能ない奴が恨んでると思うよね。努力しろよって思うよね。
その通りだと思う。嫉妬はしてるよ、羨ましいって。いいなって。私だってチヤホヤされたいって思ってる。でも多分それはほとんどの才能ない人が思ってるんじゃないかな。
私だって嗅覚鋭くなりたい。そのために努力するよ。私だって才能がないことを認めた上で努力する。努力をすれば少しだけでも上にいけると信じてる。
だから、私は努力を否定しないから才能のある人は才能を否定しないでほしい。
ここは勘違いしないでほしいんだけど、私は才能を比べるのをやめろって言いたいわけじゃない。
私は才能の存在を信じている。もちろん努力も信じている。ただ、何個も才能がある人もいれば全く才能がない人もいると思っている。大学に入って少し残酷さも見えてきた。役に立ちやすい才能を持ってる人もいれば役に立ちにくい才能を持ってる人もいる。私にもいくつか才能があるだろう。
そのたくさん種類のある才能の中でも嗅覚が鋭いことはかなり強力な部分に入るだろう。このことは多くの人が認めざるを得ないはずだ。
何度も言うが嗅覚が鋭ければ人生のかなりの部分で大きく得をする。時々これすら否定する人もいる。そしてそれは大概才能のある人。「俺だって頑張ってるの」わかる、わかるよ、頑張ってるのは。でも同じくらい頑張っても報われない人もいるんだよ。
才能を自慢することは傲慢なことだと、才能を自慢することは避けて通るべき道だと思ってるんだと思う。私も昔そう習ったような気もする。でも私は言ってほしい、「自分には才能がある」と。傲慢になってほしい。そうじゃないと才能がない人が辛すぎるから。
才能がない人もいるから才能を自慢するべきじゃない。違う、そうじゃない。才能を見せつけてほしい。
もう一度言うけど、私は才能を比べるのをやめろって言いたいわけじゃない。ただその才能を比べる大会で「努力してる」「努力した」なんて軽々しく言わないでほしい。才能以外で戦ってるふりをしないでほしい。才能で殴ってほしい。絶望するくらい才能で押し潰してほしい。才能でレイプしてほしい。
持てる者が持たざる者のふりをする。
「俺にもできたんだから君にもできるよ!」「私も頑張ったの、君も頑張って!」そこに多分悪意はない。純粋無垢な笑顔は残酷だ。
もし悪意があるのだとしたら、それこそ悪魔だ。
私は努力を否定しない、だから才能も否定しないでほしい。お願いだから。言ってほしい、これは誰が一番才能があるかを競うコンテストだって。そうしてくれないと残酷すぎる。
本当は心の中で見下してるくせに、
ニヤニヤしながら才能を否定し、
努力アピールして並んでるフリして、
差を見せつけるお前なんなん、
偉そうにしててくれよ、