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クッキーの魔法

「はあ」
夕暮れの街に、またため息が溶けていく。
オフィスビルの窓に映る茜色の空が、今日も一日の終わりを告げていた。

今日も客先で失敗してしまった。
会議室で資料が揃わず、数字の説明も曖昧になり、取引先の眉間にはっきりとしわが寄った。
その表情が、車の中でも頭から離れない。

「大丈夫。そうやって新入社員だった頃、俺も失敗ばかりだったよ」
助手席で、先輩が穏やかな声で言う。ハンドルを握る手に力が入っていたことに気づき、また、ゆっくりと息を吐く。

「数字も大事だが、一番大切なのは、お客様の笑顔を想像することだぞ。取引先の人を笑顔にしたいと思えるんだから、井上は大丈夫」

そう言われても、こう失敗が続くと、婚約者との結婚も不安になる。
こんな自分で本当に大丈夫なんだろうか。
まだ一人前だとは言えないのに、結婚してしまっていいんだろうか。

仕事と家庭の両立、子育て、そして何より自分が良い夫になれるのか……。もうすぐ結婚するというのに、まだ迷っている。

営業車を駐車場に止め、先輩とは駅で別れた。
電車の中でも、ずっと迷っていた。仕事も結婚も、迷いだらけだ。

電車を降りた駅前の商店街は、いつもより静かだった。
シャッターの下りた店の向こうに三日月が浮かび、路面には街灯の光が点々と落ちている。

見知らぬ路地に足を踏み入れたのは、その光に誘われたからかもしれない。古びた白壁の建物が、街灯に照らされて、あたたかに見えた。迷っていた心が緩んだ気がした。

その建物の裏手から、若い女性が現れた。婚約者とどこか似ていると感じた。エプロン姿の、その女性と目が合った。そっと会釈した。

その女性は、こちらへと近づいてきた。
「これ、よかったら」

差し出された紙袋は、まだ温かさが伝わってくる。そっと紙袋を開いて覗くと中には、三日月型のクッキー。淡い黄色で、街灯の光を受けて砂糖の結晶が細かく瞬いていた。

「光るパンとは違うけれど、このクッキーにも小さな魔法があるの。家で、ゆっくり、食べてみて」

その声には不思議な親しみがあった。女性の笑顔は、どこか懐かしく、同時に夢の向こうを見ているような深い瞳をしていた。

§

自宅のテーブルに座り、ふと窓の外を見上げた。三日月はもうじき姿を消すが、星たちはさっきよりも明るく輝いているような気がする。
部屋の明かりを少し落として、クッキーを皿に移した。
ほのかな温もりは、まだ残っていた。

手のひらに載せたクッキーは、思ったより軽い。
街灯に照らしたときよりも、家の明かりの中では優しい色合いに見える。

ふと、母の声を思い出した。
「おいしくなあれ」と呟きながら、クッキーを焼いていた実家の台所を思い出した。

一口かじった。バターの香りがした。その瞬間、記憶の扉が静かに開いた。

幼い頃の休日の朝。台所から漂う焼きたてのパンの香り。父と母の笑い声。
けんかをした翌朝、父と二人で作ったパンの味。
そして、そのパンを口にした自分の頬を、母が優しくなでた感触。

クッキーの最後の一欠片を口に運ぶ頃、不思議な温かさが胸の奥に広がっていた。

目を閉じると、婚約者との未来が、優しい光に包まれて見えた。
二人で朝食を作る姿。
休日に散歩する姿。
小さな失敗を笑い合える姿。

きっと、あの取引先でも、もう一度チャンスをもらえる。
今度は笑顔で帰ってこられるはずだ。
そして帰宅したら「お帰りなさい」と迎えてくれる人がいる。

失敗した日は二人でお茶を飲みながら、うまくいかなかったことを話せる。うまくいった日は、その喜びを分かち合える。

そう思うと、不思議と心が軽くなった。
明日からまた頑張ろう。そんな気持ちが、ふわりと膨らんでいく。

その夜、久しぶりに、安らかな眠りにつけた。

きっと大丈夫。今なら、そう思える気がした。


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新月編は こちら「新月の夜のパン屋」
三日月編「クッキーの魔法」(本作品)


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