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窓からの光

帰り道に、少しだけ寄り道をしたくなる夜がある。特に、疲れた顔を家族に見せたくない夜は。

終電までにはまだ少し時間があった。商店街の角のコンビニで熱い缶コーヒーを買い、路地裏の小さな空き地へと足を向ける。古いベンチが、まるで待っていたかのように佇んでいた。
シャッターの下りた店先に、街灯が影を落としている。
人けのない商店街に、看板を照らす明かりだけが、どこか寂しげに揺れていた。

返事の期限まで、あと3日。
海外赴任の辞令は、昇進という光を携えて井上の前に置かれている。

これから娘も中学生。行きたいと言っていた学校に通うなら、今の家から引っ越すのもいいかもしれない。むしろ、そのついでに家を小さくして、妻と娘がふたりで過ごしやすい場所を選べる。
それに、海外で始まる新しい業務は、確かに魅力的だった。

先日、妻が嬉しそうに話してくれた。長年携わってきた仕事で、新しいポジションのオファーがあったのだと。
夕食の後、いつものように食器を片付けながら、照れくさそうに、でも誇らしげに語る妻の横顔が、まだ目に焼き付いている。
でも、もし自分が海外に行ってしまえば、その姿を見守ることはできない。朝の慌ただしさも、休日の買い物も、何気ない団らんも、全て遠くになってしまう。

ベンチに腰掛け、井上は缶コーヒーを握りしめたまま空を見上げた。
ビルの隙間に半分の月が見える。建物の輪郭すれすれに、やわらかな光を零している。手の中の缶は、いつの間にか冷たくなっていた。

商店街の奥から、かすかな足音が聞こえてきた。一人の女性が路地へと消えていくのが目に入る。白衣のような服を着た、どこか懐かしい後ろ姿。
不思議な既視感に誘われるように、その影を追う。

細い路地には、古いアパートや倉庫が立ち並んでいた。行き止まりかと思われた突き当たりに、一軒の古びた建物があった。
その窓から、かすかな光が漏れていた。
まるで月の光が地上に降り立ったかのような、柔らかで温かな明かり。

ぱたん、ぱたん。誰かが生地を捏ねる音が聞こえる。
ふいに風が動いたとき、懐かしい香りが漂ってきた。

誰かがパンを焼いているのだろう。
その香りは、まるで子供の頃、誰かが焼いてくれたパンの匂いのよう。

そうだ。あの新月の夜も、こんな風にしてパンを買ったんだ。
新入社員の頃にもらった三日月型のクッキーも、こんな路地で出会った女性からだった。今はパン屋をしているのだろうか。
その時の不思議な温かさを、ふと思い出した。

片手に空になったコーヒーの缶を握りしめたまま、井上は家路を急いだ。
心の中で、返事の言葉が形を成していく。
「申し訳ありませんが、今回は辞退させていただきます」

まだ今の場所で、やってみたいことがある。
まだ妻と娘と、この3人の時間を紡いでいきたい。

海外赴任への未練は確かにある。
でも、そう決めた井上の心は、不思議と晴れやかだった。

もうじきビルの向こうへ沈もうとする半月が、手元を薄く照らしている。その下で、井上は家の鍵を取り出した。

「ただいま。遅くなった」
「おかえりなさい」
廊下から漏れる明かりに、妻の優しい声が重なる。

この何気ない会話を、まだまだ続けていたい。
娘の成長を見守れる時間は、きっと今しかないのだから。

井上が玄関を開けると、優しい明かりと、温かな空気が迎えてくれた。
そこには、これから守っていきたいものが、確かにあった。


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新月編は こちら「新月の夜のパン屋」
三日月編は こちら「クッキーの魔法」
半月編「窓からの光」(本作品)


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