見出し画像

星を数える子

その日も、僕は窓のそばで星を数えていた。

この家の窓から見える星は、どこか違う。
あの赤い星を探すけど、家の陰でなかなかみつからない。
その周りにある星たちも、どこか変だ。
星の並びが微妙に違っている。そんな気がする。
あの頃見上げていた夜空とは、確かに違うのだ。

「セーター、持ってきたわよ」
背後から声がして、肩にセーターがそっとかけられた。
振り返ると、今の家の母が優しく微笑んでいる。
綺麗な人で、優しい人なのだ。だけど。

「ありがとう」
僕は小さく答えた。母は僕の頭を撫でて、部屋を出て行った。

母は、僕がずっとこの家の子供だと言う。けれど、僕の記憶は違う。
あのあたたかな家と、あの頃の空と赤い星と、そこにいた人たちの記憶。
それは確かにあるのだ。

いつだったか、隣に住むおじいさんに、「僕はここの子じゃない」と打ち明けたことがある。おじいさんは困ったような顔をして、「そんなはずはない」と言った。でも、その目は悲しそうだった。

僕のいる窓の外には、大きな木がある。
葉が風に揺れるたび、ちらちらと、影が月明かりに踊る。

この木も綺麗だ。すらりと伸びた枝は、月の光を受けて銀色に輝く。女神さまがいるんじゃないかと思うくらい。
でも、あの場所にあった木とは違う。
あの木は、もっと……太かったような。でも、葉の形は覚えている

記憶が少しずつ、曖昧になっていくことが、怖い。
いつか、忘れてしまうんじゃないかと思ってしまうと、ぞっとする。

でも、僕は覚えている。
目が覚めたとき、ここが見知らぬ場所だったことを。
「素敵な場所を見せてあげる」という言葉と共に連れてこられたことを。

今の家族は悪い人たちじゃない。むしろ、とても良くしてくれる。
新しい本を買ってくれたり、公園に連れて行ってくれたり。
庭には色とりどりの花が咲いていて、春になると蝶が舞う。
ごはんだって、お腹いっぱい食べさせてくれる。
あの頃、見たことのないお菓子だって。

でも、それは僕の場所じゃない。

母が僕の写真を見せてくれた。
小さな頃の、この家での写真だという。
でも、どうしても思い出せない。
写真の中の子供は確かに僕に似ているけれど、
なんだか遠い人を見ているような気がした。

窓の外の木を見上げながら、僕は背を伸ばす。
まだ、木の半分くらいの高さだ。でも、確実に背は伸びている。
服が小さくなって、新しいものを買ってもらうことが増えた。
あの場所で来ていた服は、もう、ない。

母は「背が伸びたわね」と嬉しそうに言う。
その度に僕は思う。
もう少し、あとほんの少し。

時々、夢を見る。あの場所での暮らしの夢だ。
目覚めると、胸がきゅっと痛む。でも不思議と、涙は出ない。
だって僕は知っているから。
いつか必ず、あの場所に帰れることを。

星を数えながら、僕は空に描く。あの場所への地図を。
星の並びは違っても、あの赤い星は変わらない。
たぶん、あの場所へ帰ることもできるはず。

外に出られる範囲も広がってきた。
最初は庭だけ。隣の家のおじいさんと、はなすだけ。
次に家の周り。向こうの道には、大きな犬がいて、いつも僕がなでるのを待っていてくれる。
そして今では、近所の公園まで一人で行けるようになった。そこで会った、ちょっと大きなお兄ちゃんは僕のあこがれだ。

そこへ行くまでに見つけた小さな路地を、一本ずつ覚えていく。
この道はどこへ続いているのか。あの角を曲がるとどうなるのか。

「大きくなったね」と、隣のおじいさんが言った。
「そうだね」と僕は答えた。おじいさんの目が、また悲しそうだった。

でも、僕は悲しくない。大きくなるのが嬉しいんだ。

木の葉が色づき始めた。
この前の秋は、まだ窓枠に手が届かなかった。
この秋は、葉の落ちる音が、もっとよく聞こえる。

窓から、僕は指を伸ばす。窓から見える木の葉が、もう指に触れそうなくらい、僕は大きくなった。

そう、もうすぐだ。もうすぐ、あの木よりも僕は背が高くなる。
また次の春になったら、きっと僕は、あの木の一番低い枝にも手が届くはず。

母が買ってくれた星の地図を広げ、僕は確認する。
あの赤い星の位置と、季節ごとの星たちの動き。
あの場所への道を示す、光の地図。

それで、ほんとうにあの場所へ帰れるのかは、わからない。
けれど、やってみたいんだ。

外は静かだ。月明かりが窓を透けて、部屋の中に銀色の道を描いている。

あの場所に帰る日は、近い。僕はそう信じている。

星は、ゆっくりと周り続ける。
そして僕は、一つ一つ、確かめ続ける。
この空の下のどこかに、あのあたたかな場所がある。僕の帰るべき場所が。

背が伸びていく。記憶は少しずつ薄れていく。
でも、心の中の地図は、日に日に鮮明になっていく。

そうして僕は、今夜も星を数え続ける。
あの赤い星が、きっと僕を、あの場所へ……。


#月白堂 #物語 #星空の物語 #帰り道 #ショートファンタジー #記憶の物語

いいなと思ったら応援しよう!