
Photo by
kuh_photo
かばんの向こう側
朝の通勤電車の中、通勤時間くらいは本を読もうと、静香はかばんを開けた。いつもの定期、手帳、化粧ポーチ、本……奥の方に、見慣れない小さな貝殻。
指でそっと、つまんで、目の前にかざしてみた。銀色に輝くその貝殻は、まるで空から落ちた光が海の底で貝になったような透明感があった。指先がほんのりと暖かく感じられる。朝の光を反射して、貝はきらりと光った。
もう一度、かばんを開けた。かばんの中で何かが動いたような気がした。本を取り出そうと、自分の手を差し入れたとき、見知らぬ手が静香の手と握手をしてきたのだ。柔らかく、しかし確かな感触。冷や汗が背中を伝う。
「ひっ」静香は声にならない悲鳴を上げた。
恐る恐るかばんの中をのぞき込むと、貝殻の向こうに、見知らぬ風景が広がっている。
青い霧がかかった街。誰もいない石畳の通り。その景色は、まるで古い映画のワンシーンのようだった。すでに、握手をした手は、どこかへ消えていた。静香は、かばんの奥をそっと覗き込む。先ほどの手の痕跡さえ、もうない。
静香は、かばんを少し強く抱きしめた。電車は揺れ、窓の外の景色は流れていく。本を読むのは、あきらめた。
今日も、かばんは不思議な入り口になる。
この世界と、どこかもう一つの世界が、わずかな間だけ触れ合う。
そんな朝が、ゆっくりと動き出していた。
月白堂
#静かな不思議 #月白堂 #電車の中の異世界 #不思議な物語 #ショートショート