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溶ける夜

人の流れは、いつもと変わらない。

いくつもの路線が交差する大きな駅は、長距離バスのターミナルも併設され、行き交う人々の足音が絶えることはない。かつては押し合いへし合いの中をおぼつかない足取りで歩いていた私も、今では迷うことなくホームからホームへと移動できるようになった。

夕暮れ時の通勤ラッシュ。疲れた表情で家路を急ぐ人、スマートフォンを見つめながら歩く人、誰かと楽しげに話す人。それぞれの一日の終わりが、それぞれの表情になって行き交う。

こんなにも多くの人がいるのに、誰も私のことなど気にかけない。私も誰かを特別に見つめることもない。
ただ通り過ぎていく存在であることが、この駅では当たり前なのだ。

その時、不意に周りの音が遠のいた。

人混みの向こう、駅の出口付近に立つ女性と目が合う。私と同じくらいの年齢だろうか。彼女は、まっすぐに私を見つめていた。

「あの、大丈夫ですか?」

駅から街へ向かう彼女と、街から駅へ向かう私。本来なら交わることのない二つの動線が、不思議な形で重なった。

「泣いているように見えるのですが……」

その言葉で初めて、自分の頬を伝う涙に気がついた。彼女はそっとハンケチを差し出してくれた。ありがたく、私は彼女のハンケチを借りた。

私たちは少しの間(私の涙が止まるまで)駅の片隅で言葉を交わした。

「この駅、昔からよく来るんです」
「私も。学生の頃から」
「ほら、あそこのパン屋さん、昔からありますよね」
「ええ、確か……」

話しながら、懐かしい風景が重なっていく。制服姿で友達と笑い合った放課後。待ち合わせの約束。 最後にここに来た日のこと。
彼女と私との、記憶は重なることもあれば、そうでないこともあり。

「もしかしたら、この駅で。すれ違っていることもあったかもしれませんね」

気がつけば、私たちの会話は終わりに近づいていた。行き交う人々を見つめながら、不思議な考えが頭をよぎる。

私が彼女たちを「生きている人」だと思っているように、彼女たちも互いのことを確かに在る存在だと思っているのだろう。けれど、誰が本当にここにいて、誰がただ通り過ぎているだけの影なのか。それを知ることは、もしかしたら誰にもできないのかもしれない。

「お話できて、嬉しかったです」

夜空を見上げると、高く伸びるビルの明かりと街灯で思っていたよりもずっと明るい。半世紀前には見られなかった光景。
でも、この駅だけは、どこか変わらないままだ。

人々は行き交い、誰かの物語は続いていく。
私の物語は、もうずっと前に終わっていたのかもしれない。
けれど、今夜は温かな会話を交わすことができた。
それだけで、充分だった。

私の姿は、街灯の明かりの中でゆっくりと溶けていった。
借りたハンカチが、その場にぽとんと落ちた。

月白堂

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*今週は「不思議」な物語をお届けしています。


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