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水たまりの向こう側

雨上がりの朝。「いってきます!」と元気な声を残して走り出す子どもの背中を見送る。ランドセルが朝日に光って、まぶしい。

まだ早い時間は、空気が澄んでいて、どこからか木々の香りが漂ってくる。今日は珍しく時間に余裕があるから、ゆっくりと会社への道を歩き始めることにした。

ふと、足元の水たまりに目が留まった。
昨夜の雨の名残り。
最初は普通の水たまりだったのに、のぞき込むほどに景色が変わっていく。

まるで水面が柔らかく揺らめくように、その中に風に舞う桜の花びらが見えてきた。思わず見上げた桜の枝には、丸く小さなつぼみがつき始めたばかり。今はまだ冬の終わりなのに。水たまりの中だけが、違う季節を映しているみたい。

目が離せなくなって、もう一度水面を覗き込む。
すると、その景色の中に小さな私が写っていた。
紺のランドセルを背負って、母に手を振る姿。
母は笑顔で手を振り返している。
「行ってらっしゃい」という声が、遠くから響いてくるような気がした。
懐かしい声、あの頃の朝のあたたかさ。

そうだ、この場所。毎朝、母が送り出してくれた場所だ。
この近所に住んでいた頃、私も今の子どものように走って学校へ向かったんだ。その思い出が、水たまりに映し出されたようだった。

母はいつも、私が角を曲がって見えなくなるまで手を振っていてくれた。今、水たまりの中にいる母の笑顔が、ふっと現在の私の方を向く。
「今日も頑張ってね」と、そっと囁くような微笑み。

その時、水たまりに別の影が映った。見上げると、向かいのマンションに住む山田さんが、ベランダから手を振っていた。

「今日も寒いわねぇ。気をつけていってらっしゃい」

温かな声が届く。
毎朝、子どもを見送る私に必ず声をかけてくれる人だ。
子どものいない山田さんは、近所の子どもたちみんなの名前を覚えていて、登下校の時間になると必ずベランダに出て見守ってくれている。
風邪をひいた日は「お大事に」と差し入れを持ってきてくれたり、たまに会えない日があると「心配したのよ」と声をかけてくれたり。

水たまりの中で、母の姿と山田さんの姿が重なって見えた気がした。

人を想う気持ちは、血のつながりだけではない。
誰かのことを気にかけ、見守る気持ち。
それは、この地球で生きる私たちの、確かな絆なのかもしれない。

水たまりに映る空は、どこまでも青く、深かった。

今日も誰かが誰かを想い、
誰かの「いってらっしゃい」が、
誰かの「ただいま」につながっている。

その環の中に、私も確かに在る。

立ち去りがたい気持ちを抱えながら歩き出す。
背中に感じる朝の光は、まるで誰かにそっと手を添えてもらっているようなあたたかさだった。

水たまりは、また普通の水たまりに戻っていたけれど、その中に映る空の青さは、いつもより少し深く感じられた。


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