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新月の夜のパン屋
新月の闇が降りた商店街に、一筋の光がこぼれ落ちた。
まるで月の光が地上に降り立ったかのように、古びた路地の片隅で、白い壁の小さなパン屋がたたずんでいる。ぼんやりと白くやわらかな灯のなかで、浮かび上がって見える古びた木の看板。「月白堂」と流れるような墨文字で記されていた。
残業で疲れた足を引きずりながら、井上は思わず立ち止まった。
漂う甘い香りは、まるで子供の頃、誰かが焼いてくれたパンの匂いのよう。懐かしさに誘われるように、その店のドアに手をかける。
かすかに鈴の音が鳴り、月の光のような白銀の輝きを持つ店内に足を踏み入れた。時間が緩やかに流れる空間に、甘い香りが満ちている。
「いらっしゃいませ。本日の月白堂へようこそ」
銀髪の店主が、柔らかな微笑みを浮かべている。薄青い瞳の奥には、星々が瞬くようだった。
ショーケースには、幻想的な輝きを放つパンが並んでいた。
丸いパンは満月のように、三日月形のパンは初月のように、星型のパンは夜空に輝く星のように、それぞれが柔らかな光を宿している。
「どれも美しいですね」
井上は自然と声を漏らした。
「ありがとうございます。おすすめは思い出パンです」
「思い出……パン?」
「はい。お好みに合わせて焼き上げております」
不思議な言葉だったが、その静かな佇まいに惹かれるように、井上は思い出パンを二つ、手に取った。
店主は、袋を手渡しながら穏やかに言った。
「ご自宅で、ゆっくり召し上がってください。」
店主の声は、夜風のように優しく響いた。
帰り道、ビニール袋の中のパンは、小さな月のようにほのかな温もりを放っている。袋の中から漂う香りは、どこか懐かしくもあり、胸の奥をじんわりと温めた。
§
家に着くなり、一つ目のパンに手を伸ばす。月の光のように白く、ふんわりとした生地。一口かじった瞬間、銀色の光が広がるように、記憶の扉が静かに開いた。
新入社員だった頃。夕暮れの営業車の中で、尊敬する先輩が語ってくれた言葉が、今も耳に残っている。
「数字も大事だが、一番大切なのは、お客様の笑顔を想像することだぞ」
最近の自分はどうだっただろう。
結果を焦るあまり、若手を急かし、いつの間にか売上だけを追いかけてはいなかっただろうか。
お客様のことを本当に考えていただろうか。
十年前の、あの先輩のように、部下の成長を見守れていただろうか。
深いため息とともに、もうひとつのパンに手を伸ばした。一口かじると、今度は星空のような記憶が降り注いでくる。
小学生の頃の夕暮れ時。重そうな買い物袋を抱えたおばあさんに、思わず差し出した小さな手。「ありがとう」という言葉と共に頂いた優しい微笑み。誰かの役に立てる喜びを、初めて知った瞬間。
§
翌朝、井上は普段より早く出社した。新入社員の机に、そっと温かいコーヒーを置く。
「おはよう。昨日は私の言い方が強すぎたかな。今日は一緒に、お客様の声に耳を傾けに行こう」
驚いた表情を浮かべる新入社員に、井上は優しく微笑みかけた。
その夜、もう一度月白堂を訪ねてみた。しかし店は、まるで夢のように静かに消えていた。ただ、白壁があった場所には、かすかな月のしるしが刻まれている。
風に乗って、店主の声が届いたような気がした。
「あの夜の思い出が、あなたの中で光り続けますように」
その後、新月の夜には時々、月白堂の明かりを見かけることがある。不思議なことに、もう二度と店内には入れない。窓から漏れる店の灯りは、井上をやさしく照らす。その心の中で、あの新月の夜の温かさは、小さなパンのように、ふんわりと、優しく膨らみ続けていった。
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新月編「新月の夜のパン屋」(本作品)
三日月編は こちら「クッキーの魔法」