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手帳が結ぶものがたり

朝、まだ人がほとんどいない図書館通り。おひさまのあたたかさを感じるには、まだ弱い光のなかを、一人の女性が歩いていました。

梅子さんは図書館の司書。今朝も開館前の準備のため、いつもより早く出勤する道すがら、ふと足を止めました。歩道の隅に、一冊の手帳が落ちていたのです。

誰かが置き忘れたのか、落としたものか。表紙は深い藍色で、端の方が少し擦れていて、大切に使われていた形跡が見てとれます。拾い上げると、不思議な温もりが伝わってきました。

「どなたの忘れ物かしら」

それは去年の手帳でした。ページを開くと、丁寧な字でつづられた日々の記録が目に入ります。名前を探してページを進めていくと、一枚の銀杏の葉が見つかりました。去年の秋にひろった黄色い葉を、手帳の主が大切にしおりにしていたのでしょう。その葉の下に、小さな文字で記されていました。

「今日も一日、がんばろう」
「息子の運動会、晴れてよかった」
「図書館で借りた本、とても面白かった」

日常の何気ない幸せがつづられたその手帳には、時々、夢で見た不思議な出来事や、空を眺めて感じた季節の移ろいについても記されていました。
この手帳の持ち主は、きっと目には見えない世界の息づかいを感じている方なのだと思いました。

梅子さんは手帳を預かり物として図書館に保管することにしました。そして、その日から来館者の表情をより注意深く観察するようになりました。

昼の時間に、小学生を連れて来ている方をみれば「この方かしら」と思い、閉館前に急ぎ足で入ってくるスーツ姿の女性を見ては「お疲れさまです。もしかして...…」と目で追います。朝一番に勉強道具を抱えてやってくる学生さんたちの姿を見ては「たくさんの荷物の中から、落としてしまったのかもしれないわね」と考えます。

図書館のフロアに人が上がってくるたび、受付に人が来るたび。梅子さんの目は自然と相手の手元に向かいます。そうして一週間。

大寒を迎えた朝の開館時間。年配の女性が心配そうな様子で受付に訪れました。

「すみません、先週の木曜日に、古い手帳を落としてしまったかもしれないのですが...…」

梅子さんは静かに微笑んで、大切に保管していた手帳を取り出しました。 「お待ちしていました」

女性の目が輝きました。
「ありがとうございます!実は、この手帳には娘との思い出が...…」

「手帳の中を拝見させていただいたんです。お名前があるかと思って...」と梅子さんが謝るように言うと、山田さんは穏やかに首を振りました。
「いいんですよ。むしろ、あの手帳を見ていただいて、娘のことを知っていただけたような気がするんです」

山田さんは静かに語り始めました。三年前に他界した娘さんとの日々を、忘れないように書き留めていたのだそう。

「娘は空を見るのが好きでした。雲の形を見て『ほら、天使の羽みたい』って。今でも時々、娘が見ていた空を見上げるんです」

その言葉に、梅子さんの胸は温かくなりました。山田さんは今も、この手帳を通して娘さんと会話を続けているのかもしれません。

その日以来、図書館には新しい常連さんが増えました。毎週金曜日、山田さんは梅子さんとお話を楽しむようになったのです。二人で、時には他の常連さんたちも交えて、本の話をしたり、空の話をしたり。

先日、山田さんが新しい手帳を見せてくれました。
「今度は、私の物語も書いていこうと思うの」
その瞳には、新しい朝を迎えるような輝きがありました。

閉館の時間を迎えた図書館。窓の外はもう真っ暗で、まだ葉の出る前の銀杏の影だけが、街灯に照らされて揺れています。

この空気のなかには、いつも誰かの祈りや想いが漂っているのかもしれない。それは時として、手帳のなかの言葉となったり、誰かから聞く言葉として届いたりする。本の表紙をめくるように、何気なく通り過ぎてしまうこともある。そのくらいに、あいまいで見えないものなのだけれど、確かにそこにあって、人の心に小さな物語をつむいでいくのです。

見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。

金子みすゞ、「星とたんぽぽ」

今週を振り返って思い出す、道端で見つけた物語は何ですか?

月白堂

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#小さな奇跡 #本のある暮らし #見えない世界

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