
地下からの目覚め
文房堂のドアを開けると、懐かしい紙とインクの香りが凛子を迎えた。
店内には数人の客がいて、啓介はレジで接客中だった。凛子は彼が空くのを待って、店内の万年筆コーナーを眺めていた。
「久しぶり、凛子」
振り返ると、啓介が立っていた。小学生の頃よりずっと大人になったが、目の優しさは変わらない。
「先日、萌ちゃんとふたり、こんなことがあったの」
凛子は駅前での不思議な体験を啓介に話した。
桜の木の下での震え、そして動いた土の話を。
啓介の表情が変わった。
「俺も感じてたんだ、その振動」
彼は、先日カフェでの不思議な出会いを凛子に話し始めた。
人違いをした若い男性と、老人との会話。
「梅の季節」から「桜の季節」への移行。
そして、文房堂での準備の話。
「その後、新しく入荷した万年筆から不思議な光が漏れるのを見たんだ」
啓介は声を低くした。
「書いた字が、一瞬だけ光るんだよ」
凛子は先日、おばあちゃんにも相談したことを伝えた。
「おばあちゃんが言うには、この辺りは昔から『季節の通り道』だったらしいわ。
特に今年は『特別な年』だって」
「そうか……カフェで会った老人も、同じことを言ってたな」
啓介は考え込んだ。
「桜の木のところ、もう一度見に行かない?
俺も一緒に」
仕事が終わる夕方、凛子と啓介は桜の木がある公園に向かった。
公園に着くと、以前より強い振動を感じた。
桜の木は静かに佇んでいるが、その根元の土には何か変化があるように見えた。
「前より土が柔らかくなってる」
凛子は指で土をつついた。
日が傾き始め、公園に夕暮れの影が落ちてきた。
二人は木の根元に屈み込み、じっと見つめていた。
突然、地面から琥珀色の光が漏れ始めた。
光は細い線となって、桜の木の根元から放射状に広がっていく。
「啓介、あれ!」
地面に小さな亀裂が入り、土が盛り上がった。
二人が息を呑む中、亀裂から小さな緑の芽が顔を出した。
芽は驚くべき速さで成長し、二人の目の前でつぼみを膨らませ、小さな花を咲かせた。淡いピンク色の花びらは、まだ咲かない桜の前触れのようだった。
「きれい……」凛子は思わず手を伸ばした。
「不思議ですね」
二人の背後から声がした。振り返ると、若い男性が立っていた。
啓介がカフェで会ったという男性だ。
「春が地下から目覚め始めているんです」
男性は微笑んだ。
「冬の間、春はこの街の地下で眠っていました。でも今年は特別に力強く目覚めようとしています」
彼は歩み寄り、咲いた花を優しく見つめた。
「あなたたち二人は感じる力を持っている。
月白堂の菓子と文房堂の筆。創造の力で春を迎えてほしい」
「どういうこと?」啓介が尋ねた。
「季節は人々の心が準備できて初めて訪れるもの。あなたたちの作るものが、人々の心に春の準備をさせるんです」
男性は凛子と啓介を見つめた。
「春の案内人として、このまちに春を呼び込んでください」
そう言うと、男性は公園の出口へと歩き始めた。その背後に、ほんの一瞬だけ、尻尾のような影が揺れたように見えた。
凛子と啓介は顔を見合わせ、微笑んだ。
「季節の通り道か……」啓介はつぶやいた。
「春の案内人、悪くないわね」凛子は小さな花に手を触れた。
「明日は特別な和菓子を作ろうかな」
「俺も新しい万年筆用のインクを調合しよう」
二人は公園を後に歩き出した。
足元から伝わる振動は、もはや不思議なものではなく、心地よい春の鼓動のように感じられた。
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