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おすそわけの作法

小正月を迎える夕方の電車は、いつもより少し空いていた。打合せを終えて帰る途中、私は録音機の中身やメモ書きをしたノートを確認しながら、ふと窓の外に目をやった。いつの間にか、空の青さは徐々に抜け、街の明かりがきらめきはじめていた。

一番星を見つけた!……そう思ったけれど、それは遠くのビルの明かりで。
少しがっかりしながら、また手元のノートに視線を戻す。

ふと隣席からの香りに気がついた。上品な和菓子の香り。横へ視線を向けると、着物姿の年配の女性が、白い包み紙を静かにほどいている。

「よろしければ、おひとつどうぞ」
突然の声に、私は少し戸惑った。目の前に、小さな和菓子が差し出される。

「あの...…、本当によろしいのですか?」
「ええ。お茶会で余ったものですから。一人で食べるより、誰かと分け合う方が美味しいでしょう?」

女性はやさしく微笑み、私の手に「椿の花」を置いた。透明な個包装に包まれた、上生菓子でできた椿。淡い紅色の生地でできた花に、白い寒梅粉でうっすらと雪がのっている。

「ありがとうございます」
和菓子を受け取ると、女性は懐紙を取り出して私に差し出した。

「お行儀よく」と言って、小さく笑う。私も笑いながら、懐紙の上に和菓子を乗せて、こっそりと椿の花を食べた。

和菓子の表面は、まるで本物の椿の花びらのようになめらかで美しい。そっと一口頬張ると、もちっとしたやわらかな感触。上品な甘さが口の中に広がった。寒い季節に咲く椿のように、突然の出会いがもたらしたやさしくあたたかな気持ち。

「こうして、電車の中で和菓子を食べているなんて不思議な気分になりますね」
「そうね。ちょっと悪いことをしているような気がして、それもたのしいのよね」

話は自然と続いた。女性は老舗の和菓子屋に生まれ、今は茶道の教室を開いているという。

「お茶を点てる時は、亭主と客の心が通い合う瞬間なのよ。見知らぬ人と和菓子を分け合うのも、似ているかもしれないわね」

「電車の中でも、お茶室でも、人と人とが出会う場所なのかも……」と私が言うと、女性は嬉しそうにうなづいた。

「そうね。都会だから、街は時々、冷たい場所だと言われるけれど、こうしてあたたかな縁が生まれることもある。それを大切にしたいと思うの」

§

次の日、私は小さなイベント会場で急須を手に取っていた。

「お一人お一人に、お茶を入れさせていただきます」
紙コップでのお点前は、決して格好の良いものではない。けれど、昨日の和菓子の味を思い出しながら、一杯一杯に心を込めた。茶道の作法を知らない私にできる限り丁寧にいれた緑茶。

「丁寧なお茶の入れ方ですね」
来場者の一人が言った。
「はい。昨日、素敵な方に教わったんです。お茶を通して心を込めることの大切さを」

窓の外では、早春の夕暮れが街を染めていく。私は、まだ暖かさの残る紙コップを手渡しながら考えていた。

誰かにした、ひとつのおすそ分けは、必ず誰かの中で形を変えて生まれ変わる。それは、都会の片隅で静かに続いていく、やさしい贈り物の連鎖なのかもしれない。

来場者の方々は、お茶を受け取る時、みんな少し照れくさそうにしながらも、確かな笑顔を見せてくれた。昨日、電車の中で和菓子をいただいた時の、あの柔らかな気持ちが、形を変えて誰かの心に届いているような気がした。

その夜、webコラムの原稿を書きながら、椿の和菓子を食べたときの懐紙を、そっとメモ帳の最後のページに挟んだ。
そして今日。この小さな出来事を、ここで、あなたに届けている。

月白堂

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#おすそ分け #お茶

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