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今日という場所
夕暮れの電車に揺られていた。窓の外は、いつもと同じ景色なのに、なんだか違って見える。行き交う人々も、街灯も、すべてが少しだけぼんやりとしていた。
今朝、目覚めた時は、きっと普通の一日になるはずだった。
いつもと変わらない朝食を取り、いつもの電車に乗って、いつもの挨拶を交わして―。
でも気がつけば、自分だけが時間の流れから取り残されたような、そんな感覚に包まれていた。
会議の声も、PCのキーボードを打つ音も、同僚の笑い声も、すべてが遠くから聞こえてくるように感じられた。
ふと、向かいの席に目をやると、そこには透き通るような女性が座っていた。パステルブルーのワンピースを着た彼女は、私と同じように窓の外を見つめている。その横顔はとても美しく、夕暮れの空の中に溶けてしまいそうだった。
目が合った。
「あなたも、今日の居場所を探しているの?」と彼女は聞いてきた。その声は、鈴のように清らかだった。
私は小さくうなずいた。言葉にするのは難しかったけれど、彼女は私の気持ちを分かってくれているようだった。
「わたしね、もう随分長いこと、自分の今日を探しているの」
彼女は静かに続けた。
「毎日が同じように始まって、でも、どこかずれていく。そんな日々を過ごしているの」
その言葉に、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。まるで私の心の中を覗き込まれているように思った。
「でも、きっとあしたは見つかるわ。あなたの今日も、わたしの今日も。だって、探しているってことは、きっとどこかにあるってことだから」
ぽろっと、私の目から涙が落ちた。
彼女の言葉には、長い間温めてきた真実を語るかのような、不思議な説得力があった。
そうだ。私はずっと、この気持ちが「どこかにある」と誰かに言ってほしかったのだ。
カバンの中のハンカチを出し、そっと涙を吸わせた。
ハンカチを手に握りこみ、顔を上げると、彼女の姿は消えていた。座席には何も残っていなかったけれど、不思議と心が少し軽くなっていた。
あの女性は何だったのだろう……もしかすると幽霊だったのかもしれない。でも、それは今はもう重要なことではなかった。
電車を降りて歩き始めると、藍色の深くなっていく空に、星が一つ、まばたきしていた。街灯がまだ完全には明るくならない、昼と夜の間の時間。
もしかしたら、明日は違う一日になるかもしれない。
そう思えた瞬間、今日の重さが、少しだけやわらかになった。
いつもより少しゆっくりと歩きながら、私は帰る。
そして、私は思う。
居場所というのは、きっと誰かが与えてくれるものではなく、自分で見つけていくものなのかもしれない。
そして、それを探している人は、私だけではないのだと。
空を見上げると、星が一つ、もう一つ。
静かに輝きはじめていた。