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「普通」であるための

「普通」が普通であるために努力している人がいる
♪SUPER BEAVER/スペシャル

バイト帰り、急いでradikoを起動させ、この曲の初解禁を聴くことができました。その後、MVのプレミア公開が発表されたのですごく楽しみにしていました。
公開が水曜日の0時ということで、聴いているラジオと時間が被ってしまうので聴き終わってから見ることにしました。
最近は少し和らいできましたが、どうせラジオ聴き終わってから数時間は寝れないので丁度いいなくらいに思っていました。


最初にラジオで聴いた時はすごく励まされた気がしました。
周りからの印象というかイメージとかその人らしさとか。
「真面目だよね」とか「いい子だね」と言われるが故に、本当はそんな人ではないけど「真面目でいよう」「いい子でいよう」としてしまったりする。
他人からのイメージに縛られてしまってなんとかそのイメージの内に自分を置こうとしてしまい、それが苦しくなってくる。
その苦しみをよそに、周りからはその自分が「普通」と思われてしまう。
そういったある種の「演技」の努力を認めてくれるような気がして嬉しくなりました。


そして、改めてMVで「スペシャル」を聴いて、逆の意味でめちゃくちゃ涙が出てきました。

noteで自分が「周りの人は普通に恋愛をしてるしできてる」みたいな言い方をしているのがすごく申し訳なくなってきてしまいました。


「普通」ってなんなんですかね。
多数の人が持ち合わせているものを自分も兼ね備えていることですかね。
それとも当人の主観由来のものですかね。

僕は小学生のころからずっと「普通」「無難」でいたかった。
周りが持っている三角定規と同じ三角定規が良かったし、
周りが手提げだけで登校していたら自分も手提げだけで登校したかったし、
周りが半袖のワイシャツなら自分も半袖が良かったし、
周りが体操着のジャージを着てたら自分も着ていたかった。

多数の人が持っているものを持っていないと気が済まなかった。
多数の人がしていることと同じことをしていないと気が済まなかった。


「普通」とか「当たり前」の基準になるのって、多くの人は"自分"だと思うんですよね。
他人の手の形や爪の形を見て違和感があるのは、自分の手や爪の形が普通になっているからだと思います。
相手の普通が自分の普通じゃないこともあるし、自分の普通が相手の普通じゃないこともあります。
結局は相対評価になっちゃうんですよ。


恋愛を"普通"にできてたら、この世に恋愛相談なんか溢れてないですよね。
一筋縄ではいかないから腐るほどあるんですよね。

僕は恋愛に奥手になってしまいます。
そこのたがが外れた奴が恋愛をしていて、それが普通じゃないと思ってました。

でも、世の中を冷静に見渡すと自分が少数派なことがわかりました。
客観視した上で、自分は「普通」側じゃなかった。



曲の冒頭の歌詞だけをしがんでいてもしょうがないので後の歌詞を注意して聴いてみると、手のひらを返すようですがすごく前向きになれる気がします。

その時々の「普通」「日常」みたいなものを、この先も続けていくための努力。
その努力の目的も“自分のため”意外に“誰かのため”というのが生まれたり、“自分のための「誰かのため」”みたいなのも生まれてくるけど、それも「人間冥利」だと。

「普通」が普通であるための努力。
自分のための努力もできない僕には、“誰かのための努力”は夢のまた夢ですね。


#247  「普通」であるための

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