ダブルスタンダード

 世の中はこれで溢れかえっている。虹色に輝く工業廃水のように、ドバドバと。ネットの向こう側にいる無数の敵は、どんな顔をして、どんなことを考えながら、どんな感情でその文章を打ち込んでいるのかなんて分からない。結局、メディアも個人も、工業廃水が立てて体積を増やしたあぶくを”ネットの声”と括って掬い上げることしかできない。この括り方では、多数派の人間の構成要員が変わってることまでは捉えられない。でも、括ることしかできず、空虚なネット様の声が民意に化けていく。

 時代にチャンネルを合わせることが絶対的な正義なこの時代。過去を憐れむ人はいても今の時代に過去と同レベルのものを求めている人は多数派ではないように思います。時代にチャンネルを合わせることで規制が増えてコンプラにがんじがらめになっても尚、試行錯誤を繰り返し最大限のことをしている人や場所が存在します。

 「時代」はネットの民意が向く方向です。ネットの声が作り上げたコンプラの檻に、同じネットの声がイチャモンをつける。「昔の方が良かった」「もうオワコンだ」って。誰が閉じ込めたんだ?と言いたくなります。結局、ネット様はがんじがらめの中の努力というものに目を向けず、失った過去を美化して現状を下げる。誰が規制”させてきた”ものを、誰がどの面下げて美化してるんですかね。

 あと、断片的に過去を捉えてその後に目を向けない事例が少しばかり多い気がします。「時代」が変わって進んだときに、それをそれ以前に適応させるのは些か納得できません。そこに不遡及は適応されないんですかね。発掘はさぞ捗るでしょうし、何度でも同じことで人を吊し上げることだってできるようになりますよ。前者に関しては当時それを容認した「時代」の責任だし、後者に至っては「その後」を蔑ろにしすぎです。表現は過去から現在にかけてを線として変化を捉えないと意味がないです。じゃないと表現を続けることになんのメリットもないです。そんなに断片的に捉えたいなら、「時効だから言いますけど」とか「若気の至り」とかって言っている人も全員吊し上げて下さいよ。

 とにかく、「規範的に正しいかどうか」じゃなくて「民意に即しているか否か」で判断されてるのがむかつきます。多数派の構成要員は違えど、ダブルスタンダードな民意にイライラします。




 この世は残酷で、踏みつける側と踏みつけられる側に分かれます。踏みつけられる側が踏みつける側へ行くときは、踏みつけてくる人を蹴落として踏みつけ返さないとそっち側へは行けません。あなたも手を汚さないと、踏みつけ合いの世界は無くならないですよ。

#199  ダブルスタンダード