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内省会(2024.11.29)

 あの日思ってしまったこと、言ってしまったことを“内省”します。あくまで内省です。できればあなたは見ないでいてください。

 自分はとてつもなく自己中心的に生きていて、自分の理解の範疇から出るものに軒並み嫌悪感を抱いてしまいます。思考で特段の無理、特段の飛躍、特段の自己催眠をしなくても妥当な人生を送れている人たちに対する嫉妬だと言われたら他ならないのだけど、そんな人たちのことが理解ができません。

 恋人ができてからも、街中の学生のカップルに対して「クソどもめが」と思い続けています。書店にいる彼ら彼女らに対しては今でも「で、どっちが小説に興味ない方なんですか?」と思い続けています。これは笑ってしまうくらいの嫉妬だけど、止めれるものじゃないと自覚しています。

 いわゆる「価値下げ」をし続けることでしかとりあえずの今日を生きていけるだけの自信を感じられません。1ヶ月後にライブがあるだとか週末は恋人と会えるだとかでは満たせない類の、今日のこの瞬間に自責の念に押し潰されないための自信がない。自分には無いなにがしかを持っている人たちと生きる日々の中で、一つでも優位に立てる事柄を見つけて下を作り、かりそめの自信を抱きしめながら生きている。

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 部活の引退した先輩が部室に来るのがずっと嫌で、その先輩たちに対して「来んなよ」ってずっと思ってきました。アルバイト中の人間の恋人が、勤務中の片割れにちょっかいかけに来てたりするのを見かけると「わざわざ来んなよ」と思ってきました。
 だから自分はそんな真似は死んでもしたくない。部活を辞めたなら、もう部室に行かない。生徒会を辞めたなら、生徒会室には行かない。アルバイトを辞めたなら、そこへのこのこ買い物をしに行ったりしない。そんな場所に下げていくツラを、僕は持ち合わせていません。
 去ったものが顔を出すことで喜ぶ人がいることは構わないし、顔を出したがる人がいるのも構わない。ただ僕はそういうのを「キモいな、めんどくせえな、何しにきたんだよ」と思ってきた人間なので、そう思う人がこの世に存在することを知っています。その両方は取れないのだから、僕は自分みたいな人の味方をしたい。尊重するなら、自分と同じ側を尊重したい。それがたとえ歪んでいたとしても。それがたとえ振り上げた拳を下ろせないだけだとしても。

 11月29日は年末調整用に元バイト先まで源泉徴収票を受け取りに行きました。それで社員さんやパートさんとは少し話をしましたが、当時の後輩のアルバイトの人には一人も声をかけませんでした。なんだかんだと言われましても、「自分だったら話しかけられたくないから」以上でも以下でもないのです。
 ただ、顔を出すことに抵抗がない人もいるということを、あの日認められていればよかったです。説得もされないけど説得もできないんだということを改めて自覚できていればよかったです。

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 協調性なんか自分にはないけど、なるべく周りや隣にいる人に合わせるようには生きている。でもたまにどうしても我慢できなくなるから、仕事中でも30分ぐらい遠〜くで一人きりになったりする。

 自主的にガス抜きしとかないとムズムズして我慢できない。

 駅の階段の登る遅さにイライラする。上り下りをガン無視する人にイライラする。直前で隣の改札にシフトチェンジしてくる人にイライラする。
 とにかくイライラするから、人の波が収まるのをホームの端っこで待つこともある。
 なるべく早く歩きたいけど、それは早く目的地に着きたいからではない。目の前に人がいる状態でそれに着いて行ってるみたいな状況が嫌だから。だから、信号無視して追い越していく人の目的が理解できない。どうせまたこっちが追い抜かすから。

 友達と一緒にディズニーに行きたいとは思わない。でも、部活の人に同期で行こうと誘われたら断らないし、気乗りしないことは隠し通す。で、それは今後もずっとそう。でもだからと言って自分から誘うことは絶対にない。
 同期との飲み会も、自分からは絶対に誘わない。


 でも本当は、こっちが感情を全部殺して理解を示せばいいだけの話。そんことわかってたのに、変に意地張らない方がよかった。理解もできないし理解もされないのだから、黙ってマスに擬態しておけばいい。これは自分への戒めです。擬似の協調性を被っておけばいい。ニセであることはすぐにはバレないのだから。だまって擬態して、一人の時にそれは爆発させれば済む話。できた人間でなくても、せめて一人の時に。

  


#417  内省会(2024.11.29)