「HOME Portraits of the Hakka」写真家 中村治インタビュー(前編)
写真家中村治による写真集「HOME Portraits of the Hakka」の刊行にあたり、今回の写真集の見どころについて、中村さんご自身にお話を聞いてきました。インタビュー前半では、写真集の被写体である客家(はっか)と彼らの住居である「客家土楼(はっかどろう)」について、詳しく語っていただきます。写真集を隣に置いて、どうぞ気軽にお読みください。(本編に掲載されている写真は、2006年、2007年、2008年、2019年に撮影されたものです)
客家とはどのような存在なのか?
大和田:今回の中村さんの写真集「HOME」は、中国の福建省に住んでいる客家(はっか)と呼ばれる人たちと、彼らの住んでいる客家土楼(はっかどろう)を被写体としたものということですが、日本人にとって客家というのはそれほど知られた存在ではないと思います。そもそも、客家とはどういう人たちだと考えればよいのでしょうか?
中村:客家というのは、簡単にいうと移民なんです。由来は諸説あるんですが、古くは秦の時代や、そこまで古くなくても晋の時代、4世紀くらいに戦乱を逃れて、中原(ちゅうげん)と呼ばれる中華文明の発祥の地と呼ばれる地域から移動を始めた豪族の末裔だと言われています。そして1000年くらい前に、今、福建土楼と呼ばれる建物のある、福建省の山間部に到着し、定住したと言われています。普通、移民というと現地の人と衝突したり、いろいろな矛盾があったりしながらも、少しずつ現地に溶け込んでいくことが多いと思うんですが、客家の場合は現地の人と混じり合わずに、「客の家」すなわち「よそ者」であり続けた。それでも、現地の人と武力闘争が起きたり、山賊に襲われたりといったことがあるので、自衛のために高く塀を囲って客家土楼と呼ばれる特異な住居を作り、自分たちのアイデンティティを保ち続けて来た。
大和田:それは、彼らの「自分たちのアイデンティティを守り続けたい」という意思によるものなのでしょうか。
中村:彼らが中原から来たというのが本当だとすると、福建省からすると北方の文化ですよね。この中原の文化と福建省の文化というのはあまりにも乖離していて、取り入れるというのは難しいくらい違いがあったんじゃないでしょうか。だから、自分たちの文化を守るということがすごく強いモチベーションになったのかもしれません。そういう「中原から来た」という意識を強く持っている人たちがよその場所に入って、それを保ち続けられたというのは、すごく面白い現象だと思いますね。
大和田:それは、中原というルーツに対する1つのプライドなんでしょうか。
中村:そうですね。自分たちの帰属意識というのが、福建省の土楼のある場所にももちろんあるんでしょうけど、それよりも中原にあるというのが面白いですね。地球からはるか彼方に、銀河を旅して、地球からはもう何万光年も離れてしまって、帰ることもないけれど、ずっと地球を思い続けるみたいな。なんとなくそういう風な感じを思いましたね。小惑星とかにコロニー作って、みんな移住してくるんですけど、「やっぱり私たちは地球から来た地球人だ」っていう。
漢民族の「顔」を探して
大和田:中村さんが最初に客家という存在を知ったのは、何がきっかけだったんですか?
中村:最初は、建築の客家土楼に興味を持ったんです。1995年から1997年まで、語学留学で北京をフラフラしていて。その時は写真を始めてまだ2年くらいで写真に飢えていたので、北京で書店に入るたびに写真を探すんですけど、写真雑誌なんかほとんどなくて。結局、書店にある写真の本は、あっという間に全部見ちゃって。それで、建築雑誌に写真があると思って開いたら、福建土楼があったんです。こんな強烈な、不思議な形をした建築物があるんだというので、ここに行ってみたいなと思ったのが最初ですね。
大和田:その時は、客家の人たちというのはそんなに意識はしていなかったんですね。
中村:そうです。それから日本に帰って来て、写真家の下で修行してフリーになってから、年に何回かまた中国へ写真を撮りに行くようになったんです。その時に、北京とか上海とか、中国の有名な人とかを撮ったりしている中で、「漢民族ってなんなんだろう」と思い始めて。中国は多民族国家でいろいろな民族があるけれど、ウイグル族とか、チベット族とか、雲南省にはナシ族、ペー族、ハニ族とかいて、そういう人達は自分達の民族衣装があって、民族としてわかりやすいですよね。それに対して漢民族って考えた時に、想像しやすい何かを見つけてみたいなと思った時に、客家が出て来た。漢民族というのは、紀元数千年前から中華文明の中心地である黄河中下流域にいた中原の人々が起こりだと言われています。客家の人達は中原から流転して来た人々なので、かつての《中原人→漢民族》であるとも言えるのではないかと。また中国に現存する言語の中で、一番中原語に近いのが客家語なんです。そういう言葉を操る人たちということで、古の中原人、漢民族のかつてあった顔というのが、客家人には残っているんじゃないか。福建省の客家の村に行ったら、漢民族とか中原人を感じることができるんじゃないか、と。
大和田:最初は土楼、建物から入ったわけですが、次に、そこに住んでいる人がどんな顔をしているのか、という関心に移っていったわけですね。
中村:そうですね。あとは、僕は人の顔を撮るのが好きなのと、師匠である坂田栄一郎氏からもポートレイトを学んだので、中国で撮るなら、何かこう、はっきりとした集団の顔というものを撮ってみたいと思って。それがたまたま客家の人たちだったということですね。それで、最初に福建省の山奥にある客家の村へ撮影に行ったのが2006年でした。
優秀な人材を作るシステム
大和田:福建省の山奥というのは、行くのにどのくらい時間がかかるものなのですか?
中村:今は、飛行機の直行便で成田から厦門(アモイ)まで3時間で着いて、厦門から土楼がある山間部に向かう途中の大都市、龍岩(ロンイェン)まで、新幹線に乗って1時間半くらい。そこから車に乗って高速道路で1時間半くらいです。でも昔は、厦門まで飛行機で3時間は変わらないんですが、そこから龍岩(ロンイェン)まで長距離バスに乗って5、6時間。そこからさらに小さいバスに乗り換えて、土楼がある永定(ヨンディン)とか南靖(ナンジン)といったところまで3、4時間くらいですかね。当時は高速道路もなかったんで、山間をぐるぐる回って。その町から僕は、いつもバイクタクシーを1日雇って、バイクの後ろに乗ってあちこちの土楼をぐるぐる回るっていう。だから、十何年前は結構行きづらかったです。観光客も少なくて、陸の孤島みたいな感じではありましたね。それでも、中国の他の田舎とは違う文化水準の高さみたいなのはあると思いました。
大和田:客家からは、著名な人物が出ているそうですね。
中村:客家の人たちは、基本的に畑仕事は女性がやって、男性はその収穫物を売りに行商したりとか、そういう役割の分担があったようです。客家の人たちは中原から出て来ている人たちだから、どうすれば世の中で身を立てられるかっていうことをよく知っていたんだと思うんですよ。商売をするのにも、簿記とかの知識がないと情報も入らないし、商売もうまくいかないということで、勉学にすごく力を入れていた。昔は科挙制度があって、科挙に合格させて、官僚になると中央の方へ行ける。そうすると、中央からお金が落ちて来たりとか、給料だけでも莫大なものがもらえる。客家の村の科挙の合格率は、他の地域に比べて10倍くらいあったと言われているほど、優秀な人材を作るシステムが土楼の中にあったということだと思うんですよね。土楼によっては、家庭教師を生業とする人がいたという話も聞きました。普通、中央から遠い村の中だったら、「もう勉強なんかいいから働け」となりがちだと思うんですけど、そうならないというのが、客家が客家たる所以なんじゃないかな、と。
大和田:自分たちの本来の居場所である中原に対する意識というのがあって、そこに対して教育でアプローチして、戻って行くという。そういう意識があったということですか。
中村:そうですね。「私たちはあそこから来たんだ」っていう意識があったんだと思います。今は没落しているけど、このまま世の中で消えていくわけにはいかないといった意識だったんでしょうね。「ここでもまだ、磨けば光るんだ」みたいな感じがある。客家の人の中には、海外へ出て行って成功した人たちもすごく多いんです。その中には、シンガポールの建国の父であるリー・クアンユーとか、タイガーバームの社長とか。李登輝もそうですし、孫文も客家系だという説もあります。それから鄧小平は四川客家、福建省の客家とはちょっと違うんですけど、中原から来て四川の方へ行った客家たちもいて。結局なぜそれが客家なのかというと、客家語なんですよね。
大和田:言葉が同じ。
中村:訛りはあるでしょうけど、言葉がほぼほぼ同じなんですよね。言葉が同じ、だから客家ということですね。えらい人がいっぱい出ているので東洋のユダヤ人って呼ばれたり、華僑の中でも強烈に出世する人が出た。
客家の始祖信仰
中村:客家の村で偉い人、科挙に合格して官僚になるような人が出ると、村の中に、天にも昇るような人が出たということで塔を作ったんです。その塔には龍がとぐろを巻いてて、頂上まで行っている。写真集にも塔の写真が載っていますけれど、あれも龍が途中までいた気がします。
そして、客家が中原への帰属意識を持ち続けて教育にも熱心だったことが形に現れているのが、これも写真集に載せていますが、土楼の中にある、祖先を祀るお堂だったり祠だったりします。あそこで祀られているのは、基本的に祖先なんです。始祖信仰ですね。それから土楼ごとに、どこから来たっていう、一族の系譜図のようなものも記録として残されている。全部が全部本物かというとちょっと怪しい気もしますけど、そういう系譜ということを大事にして来た。現地の人に交わって来なかったというのも、そういうところに現れている。基本的に、1つの土楼に、李さん一家だったら李さん一家しかいないんですよ。金さんだったら金一家。江さんだったら江一家。
大和田:外との交流というのは、そんなに少なかったんですか。
中村:基本的に、地元の人との交流はほとんどなかったようです。大昔は、客家土楼があるような山奥には、客家以外はほとんど住んでいなかったんです。だから、かつては近親結婚を避けるために、必ず別の客家の村の人と結婚したそうです。今は、同じ同姓の客家でも家系図を五代遡って同族でなければOKという慣習があるようですが。
大和田:閉鎖された空間であるがゆえに、客家としての血縁が維持されたということですか?
中村:実は、客家じゃない多くの福建人の家系図をたどると、たいてい中原にたどり着くそうなんです。彼らも、もともとは客家と同じ中原からの移民だったということですね。ただ、客家と違ってそれらの福建人は平地に定着したので、昔からいた地元の人たちと混じり合うことになった。その結果、中原の痕跡も変化していかざるを得なかった。それに対して、客家の人たちが定着した地域はあまりにも僻地だったので、結果的に客家固有の文化や言語を保つことになったということなんじゃないでしょうか。
大和田:客家の人たちは、自分たちで自分たちのことを客家と呼んでいるんですか?
中村:呼んでますね。でも、福建省に住んでいる現代の客家人は、自分たちが客家であるという意識はそれほど強くないようです。ただ、福建省を遠く離れた海外客家には客家としてのプライドが強く残るようで、海外で成功した客家が土楼の保存に多くの献金をするのも、その現れだと思います。客家という呼び名にも、今では差別的な意味は含まれていないようです。100年前、200年前にどうだったかというと、わからないですが。
大和田:もともと客家というのは、部外者として差別的に付けられたのかもしれない。それが長い歴史を経る間に、自分たちは客家であると、肯定的に自分たちのアイデンティティを表すものになったのかもしれない。
中村:そう、そういう風にどこかで変わっていった時期があるんじゃないかな、と僕は思います。
客家土楼という建築物
大和田:最初に中村さんが客家土楼を見た時の印象って覚えてますか?
中村:とにかく、ものすごく大きい。ちょっと普通じゃないな、という感じですね。なんだこれは、という驚きがありました。客家土楼というのは、集合住宅でもあり、要塞でもある。中はちゃんとコミュニティができているんですけど、完全に外部を遮断している。内と外とのはっきりとした境界があるんです。普通は家の前に庭があってとか、中間地帯を作るものだと思うんですが、客家土楼の場合、庭を作るとしたら中庭に作るんですよね。外には作らないんです。中間領域がない。怖いとかそういう感じではなくて、驚きがありましたね。こういうものを作らなきゃいけなかった人たちなんだということが、肌でわかるというか。中国には、2km四方の城壁で周囲を囲っているような街もあるんですよ。そこにも行ったことがあるんですけど、そういうところの雰囲気とはちょっと違いますね。より身近な人たちが、肩を組んで、狭いところに巨大なものを作っているという感覚です。
大和田:より共同体的なものなんでしょうね。城壁というのは守るための一つの方法に過ぎないといえば過ぎないわけで、守る必要がないときは出入りも自由で、行商の人がやってきたりといった外と内との交流があるわけですが、土楼の場合はそれとはちょっと違うということでしょうか。
中村:そうですね。空間にいきなりコップがゴンって置かれている。そういう感じですね。すごく違和感のある建物が、空間の中にいきなり置かれている。異様な感じがしましたね。客家土楼のような円型で巨大な集合住宅を作った人たちというのは、世界でほかにはないらしいんです。
大和田:例えば中村さんは客家にとっては部外者ですけど、そういう部外者を拒絶するような雰囲気というのはなかったんですか?
中村:僕が行った当時は門が開けられていて、「いいよ自由に入って」みたいな感じだったんですけど、あれが門が閉じてて、1階2階には窓がないんですが3階4階には窓があって、そこから銃口とかをつき出せるようになってるんで。もしそうなっていたら、とてもじゃないけど近寄れないという感じはありますよね。そのスイッチの切り替えによって、風景がまったく変わるんだろうなあ、と。けど、中に入ると、親戚一同がいて、みんな和気藹々としているという。不思議な、とてもユニークな建物だと思いましたね。
大和田:中村さんが行った時、土楼に住んでいる人たちというのは、どんな態度で接してくるんですか?
中村:基本的には友好的な感じでしたね。ちょっと喋ると外国人だってわかるし、僕も中国語がちょっとできるんで、「なんで外国人なのに中国語できるのか?」って。日本人だって言っても、客家土楼の方は日本軍とか来ていないんで、反日感情というのもそんなに強くないんですよ。はじめはちょっとそっけない感じなんですけど、中国語で話しかけるとニコニコして、「よく来たねえ」っていう。ぼくが13年前に回っていた時に一番よく言われたのが、「建築家か」って。建築家が、海外や国内から、いっぱい回ってくる。カメラを持ってても、建築家もみんなカメラ持っていくと思うんで。写真家っていう存在も、そんなによくわからないんじゃないですかね。今は、デジカメだから撮ってすぐ見られますけど、当時は現像しなきゃいけないじゃないですか。現地の人たちは写真を撮っても現像するために街まで出ていかなければならないから、カメラもほとんど持っていなかったと思うんですよね。「出てけ」みたいなのは1回もなかったんじゃないですかね。
大和田:その頃は、観光客も少なかったんですか?
中村:最初に着いた時に、今は世界遺産になっている土楼の前で写真を撮り始めたんです。そしたら、「君は写真家か?」と言われて。「そうだ、日本から来た」と。「そうなのか、先月ユネスコの人が来て、実はここは、今ユネスコで世界遺産の登録の審査に入っていて、そうなると人がもっと来るかもしれない、そういう段階なんだ」と。政府も世界遺産に登録されるために補助金を出して、土楼を綺麗にしている最中だ、みたいなことを言っていて。結局、世界遺産に登録されたのは50棟くらいなんで、その辺がたまたまそうだったんだと思うんですけど、その話をしていたおじさんに「観光客ってよく来るんですか?」って聞いたら、「あーよく来るよ」。で、「どんだけ来るんですか?」って言ったら「1週間に1組ぐらい」(笑)。もうほんとそのくらいだったらしいですよ。それが世界遺産に登録されてから行ったら、ものすごい人でした。
大和田:土楼は、全部でどのくらいあるんでしょう?
中村:それも文献によっていろいろなことが書いてあるんですけど、多いのが、円形の土楼が300とか360。方形の土楼が1000くらいあって。そのほか、方形とも円形とも言えない、土楼っぽい形があるくらいなものが1万くらいあると。本当にそんなにあるのかな?と思うんですけど。
(インタビュー後編へ続く)
HOME Portraits of the Hakka
中村治
中国福建省山間部に住む客家(ふりがな:はっか)と呼ばれる人たちとその住居を撮影した、中村治の1st写真集。黄色い光に包まれながら、「私」と「家」を巡って綴られる記憶と記録。
4,500円(+税)/260×280mm/120ページ/上製本
ISBN978-4-910023-00-7 C0072
https://www.amazon.co.jp/dp/4910023003/
〇プロフィール
中村 治 osamu nakamura
広島生まれ。成蹊大学文学部卒業。ロイター通信社北京支局で現地通信員として写真を撮ることからフォトグラファーのキャリアをスタートし、雑誌社カメラマン、鳥居正夫アシスタントを経て、ポートレイト撮影の巨匠坂田栄一郎に5年間師事。2006年独立し、広告雑誌等でポートレートを中心に活動している。