「共震」の時代-2

 前回は、現代社会において共感を得られる事物こそが価値あるものであり、人が自分の価値を高めようとした結果、無意識の自動的・受動的共感をし続けている状態、つまり「共震」の状態にあるのではないか、ということについて書きました。今回はもう少し具体的に、「共震状態を表していると思われる事象」について考えていきたいと思います。
 
 私が特に象徴的だなと感じているのは、「当事者の代わりに怒る人々」です。例えばTwitterやFacebookなどのSNSを眺めていると、「国のせいで、農家の人々がつらい思いをしている。これはひどい!」と一般会社員がつぶやいていたり、「日本の教育機関は全然ダメ。若者たちがかわいそうすぎる!」などと年配の方が投稿しているのを見かけたりします。このように、「私はいいのだけれど、これでは当事者が不憫だ。広く訴えなければならない!」系の投稿をご覧になったことのある方はきっといらっしゃるのではないでしょうか(もしくはご自身が投稿する側か)。
 
 別の事柄でいえば、職場で自分以外の同僚が上司から受けた理不尽な扱いを受けたことを聞きつけ、あたかも自分がその扱いを受けたように感じ、その上司を敵視するといったこともあるかもしれません。上司の立場からすれば、ある一人のメンバーに対してとった態度は、そのメンバーのみならず、チームメンバー全員に影響を与えてしてしまう可能性を意識しながら、日頃のコミュニケーションをとらなければならないという、非常にストレスフルな状態にあるわけです。
 
 この2つの例について、前回立てた「人が共感を表明するのは、自分の価値を維持・向上させるためである」という仮説を下敷きに、心理的なプロセスを因数分解してみたいと思います。前者の例では、「私はいいのだけれど」、つまり直接的に現状は自分に害を為す状態にはないのに、「訴えなければならない」と自分のフォロワーに拡散しているわけです。これは比較的わかりやすいと思うのですが、つまりこのツイートをした人は、自分のフォロワーに「自分はこんな社会的な問題にも関心を寄せているんだ、意識が高いだろう?」と自分の価値の高さをアピールしていると考えることができます。
 
 一方、後者は少し複雑です。先程の例を見て「いや、別にそこまで敵視しない=同僚に共感しない人もいるんじゃない?」と思われた方もいるかもしれません。ここで重要なのは、「誰に対して自分の価値をアピールしたいか」です。先程の例でいえば、自分が共感を向けた相手は同僚、つまり、自分の価値をアピールしたい相手は同僚であり上司ではなかった、ということになります。逆に言えば、上司に対して自分の価値をアピールしたかった場合、上司の、同僚に対する態度はごく自然なものであると感じ、同僚のことを悪く思うようになるかもしれません。職場の誰に対してもアピールする必要性を感じていなければ…書くまでもありませんね。
 
 今回は共震が起きていると思われる事象について見てきましたが、次回は共震そのものや、共震に至る心理的なメカニズムが引き起こしていると考えられる様々な弊害について考えていきたいと思います。

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