#54 なぜだ!なぜおかしは食べるとなくなるのだ!!
無くなる事におびえていた。
失くす事におびえていたのかもしれない。
はじめは何も持っていなかった。
でもふと気が付くと、あれやこれやと背負って歩いていた。
何も持っていなかったから背負う事が出来たのだと思った。
持たざる者として生きていた僕が、ついに得た物だと思った。
今、背負うべきものがあるのだと考えていた。
それでも、少しずつ失いつつあった。
白髪が増えつつあり、僕の元を去る人達もいた。
手中にあった物を手放すのは、とても怖い。
とても怖いので、失わないように失わないようにと意識が働いた。
それらを愛していたから。
だがこれは実際のところ「執着」であった。
愛とは利他的な物。与えるべき物。
僕は利己的に、自分のために「執着」していたに過ぎなかった。
時は移ろい行くものだし、形あるものはいつか壊れる。
富や名声も、いつしか色褪せて行く。
人はいつか死ぬし、時を止める事は出来ない。
流れる水や手のひらですくった砂のように、
指の間から絶え間なく落ちて行く。
いつまで喪失におびえていなくてはいけないのだろう。
どうして、失い続けなくてはならないのだろう。
湧き出る泉の水の様に、なぜ?なぜ?と心の声がする。
だが、答えはない。
だから、
だから僕は、君の気持ちが良くわかるよ。
久しぶりに手に入れた板チョコを、食べたいけれど食べられないのび太。ドラえもんと言う観客を前に大演説の熱演が行われ、哲学的で本質的な名セリフが飛び出す。珍しくトゲトゲしい吹き出し。大きな声でこの言葉が発せられたのがわかる。
「なぜだ!なぜおかしは食べるとなくなるのだ!」
馬鹿馬鹿しくも美しく響いたこの言葉の中に、ある一つの数式への疑問が見えた。
なぜ、せっかく得た物を失わねばならぬのだと。
なぜ、積み重ねたり、繰越したりしていけないのだと。
どうして食べると無くなるのだ。というのはこういう事を示唆している。
このコマの後にドラえもんは、
「ずいぶんあたりまえのことをいうんだな」と言う。
あたりまえとは、常識であるともいえる。
常識で考えれば、1+1=2はあたりまえである。
故に、1ー1=0もあたりまえである。
誰もがあたりまえであると思う事へ疑問を呈している。
だからのび太のこのセリフは、常識への挑戦状だ。
定型の答えの無いものに、どうやって答えるのか。
哲学的な思考力を問われている。
のび太の疑問は、哲学的である。と言ってしまえば安易で簡単だが、実はのび太自身がこの答えを大長編「のび太の太陽王伝説」の中で出していた。
「1+1は1よりも少なくなるとは僕思わない!」
のび太は
1+1という問に
1+1>1が正
1+1<1が否
と定義したと言える。
2であるかどうかではない。そんな常識的な解ではなく、独自の視点・解釈を用いる事で頑固な態度を取るティオ王子を説得した。
滅多に手に入れられない物を、自らの手で消費する時、なかなかその決心がつかない時がある。ティオ王子は大事な仲間だからこそ、のび太達に手伝って欲しいとは言えなかった。また、王子という持つ者であるという立場が、得難い仲間を捨ててでも、自分だけで何とかしなくてはいけないとさせていた。
ティオ王子のように普段から常識という枠に囚われている自分に気が付いていない人には、のび太の思想はずいぶんと刺さったことだろう。
実はこのようにのび太は、いつだって常識の枠の外で考えようとしている。これはもしかしたら、そもそも彼が常識知らずなのであって、知らないからこその言葉が芯を食っているのかも知れない。
僕たちもいざ自分の手に入れた時、あんなにも欲しくて焦がれていたのに、大事に思い過ぎて勿体ないような、取っておきたいような、すぐにでも開けて使ってしまいたいような、恐れ多いような、やっぱりあとにしようかな的な、複雑な気持ちになってしまう事があると思う。
今、世の中は、限定品と呼ばれる物で溢れかえっている。
おかしな話だが、誰もかれもが限定品を持っている。それのどこが限定品なのかと聞きたくなるくらいで、まるで限定品のバーゲンセールだ。
良く聞くのは、3個、同じ物を買うという消費行動だ。
一つは、自分で使用する
一つは、保存するため
一つは、布教用
それぞれの役割を持って限定品は購入される。
限定品を購入するのには、理由がある。数に限りがあるからだ。
買わないと手に入らなくなるという飢餓感は判断力を失わせる。
ファンであれば必ず持っているべき物として考えられているため、それに掛かる費用の事を、その信仰心に合わせて「お布施」と言ったりする。
そうして、それらを心行くまで保管しておく。新たな限定品を購入するために、働いて飲んで食って暮らす。気のすむまでそうするのだ。これも一つの消費の方法であるが、停滞していると言えるのかも知れない。消費して失われないという意味で、流れで言えば淀みだ。
食べたら無くなるという意味では、のび太の板チョコは限定品である。何でもない商品かも知れないが、彼がそこに見出す意味や価値は大きい。だから取っておきたいから食べる事が出来ず、食べてしまうと無くなってしまうというジレンマがある。
実は、全ての物が限定品である。ずっと手に入れた時と同じ状態ではない。時間の経過とともに価値や意味が変化していく。
炊き立てのご飯はとても価値があるが、そのまま置いておいたご飯がカビだらけになっている時は、とたんに忌み嫌うべきものになり果てる。
いつまでも自分のそばに置いておきたい物や人があったとしても、その価値や意味は、消費しないと得られない。使わないと、食べないと、失わないといけない。でなければ、その価値や意味が色あせて失われていく事もある。もしくは持っているけど、その存在を忘れてしまっては持っていないのと一緒だともいえる。
故に、のび太の板チョコは食べないと、ただの板である。食べないとその価値はない。それが流れの淀みになり、食べられなくなってからその喪失を嘆いても仕方がない。
万物は時と共に自分の前を流れて行くと考えた時、自分もまたその流れの中で流されている。だが、流れ行く先は全ての物がバラバラである。最後は孤独なのだ。
その流れの中で奇跡的に出会う事が出来たのであれば、それを手に取って得られるものは得ようとするべきである。何故なら全ては過ぎ去ってしまうからだ。
その理屈で言えば失ってしまうのも、流れなのだ。得てそれを失くすことが生きるという事でもある。あなたがもしそれを受け入れる事は出来なくても、どうにかして折り合いをつけて流れて行くしかない。
だか、この「得て、失う」が1-1=0だとしても、まるごとの板チョコを食べた事があるという経験が、きっと僕らを1よりも大きな存在にしてくれるに違いない。
だからホワイトデーに渡すのが、その普通の板チョコ1枚だったとしても、その価値は君が思っているよりも膨大なんや。いいから黙って食べるんやで。