#23 くらやみは、ますます深まるばかり………。
最後の秘境は「深海」である。
これだけAIとかロボットや、その他最先端の技術が発展していても、海について人類はまだ何も知らないと言ってもいいぐらい、何もわかっていない。
実際、世界の海の95%はいまだ解明されていないという。
なぜ海の調査は進まないのか。
3つの過酷な環境がその要因である。
・高圧
・低温
・暗黒
水深6,500mの深海では、1センチ平方メートルにかかる圧力は約650㎏だそうである。当然、深くなればなるほど水圧が掛かってくる。深海の水の温度は2〜4度。とても人類にとって心地よい温度とは言えない。太陽の光は水深200mで地上の10分の1。深海1,000m以下の世界では、地上の100兆分の1になってしまう。
そして、海底の地形がどうなっているのかも良くわからない。エコー調査や3Dレーザースキャンのような技術で、大まかには把握できるようであるが、実際にはどうなっているか知るものはいないのである。
そんな場所に乗り込んでいくには、最新鋭の技術を盛り込んだ「潜水艇」が必要になる。様々な状況や調査に対応できるような汎用性を持ちつつ、乗組員の安全を守る事もできるような船。それが求められる。
当然、それにはものすごい金額が掛かる。実際、日本の有名な潜水艇「しんかい6500」の開発費は125億円だそうである。さらに言えば維持費や調査費にも金がかかる。これは、国の研究予算として計上された物である。今、しんかい12000を作っているそうだ。これはおいくらだろう。
とまぁ、そんなわけで結果が出ないと、この調査の必要性を疑問視されてしまう。という事も何となく想像できる。
なぜ調査が進まないのか、それは「手探り」で調査を行っているから。そして、いつでも何度でもと、気安く調査ができるような環境じゃないから。という事なのだろうと思う。
さらにもう一つ、こう思っている人がほとんどだろうという意味で述べる。決して、どこかの組織への批判でも海の調査を行っている人たちへの批判でもない。単なる庶民的な感覚である。それは、こうだ。
「行けもしない海の底の事なんて、知らなくても生きていける」
では、下のコマをご覧いただきたい。
てんとう虫コミックス第4巻収録「海底ハイキング」からの1コマ。暗く寂しい海底を、ひみつ道具が詰まったリュックサックを背負って1人で歩くのび太。いよいよ、本格的に「深海」へと足を踏み入れた彼の、暗闇と共に濃くなっていく不安が現れている。ポツネンとした孤独感を、何もない海底と行く先に深まる闇が際立たせている。
このカメラ位置、というか、構図にも目を向けて欲しい。コマの中心にのび太はいるものの後ろ向きであるし、非常に小さく描かれている。つまり「引き」の構図なのである。この引いた構図こそが、このコマの持つ意味を如実に表現していると言える。
まるで今、のび太がいるのはどこまで引いてもこのような絵にしかならないような場所である。と言っているようでもある。
この前のコマでのび太は「深海魚は、グロテスクだからきらい!」と言っているが、それがこのコマの「その深海魚さえ、めったに見かけなくなった。」につながっている。深海魚は、グロテスクできらい!なのだが、いないよりはマシだったのかもしれない。と思うくらい、何もない。
自分がいる以外は何もないのだ。
そして、このセリフは独り言である。ちょっと想像してほしい。自分だったらどうか、と。
さみしいというか、もうちょっと怖い。のではないだろうか。
キャラクターの心情を表現するという意味で、このコマの持つ力は手放しに素晴らしい。削り落とした少ない情報で、どれだけ多くの情報を入れるのか。いろいろな事に繋がりそうな気付きである。
さて、この話は初期にまれにあったドラえもんではなく、妹のドラミちゃんとのび太の話である。話の冒頭にはスイッチの切れたドラえもんがごろんとのびちゃって横たわっており、ドラミちゃんがスイッチを切って休ませているという事を説明している。ドラえもんが休みの間の世話は私が見るから。とドラミちゃんはのび太を押して次ページからの話へと読者をいざなう。
この辺りは補足ページなのだろうけれど、説明として「ロボットは、ときどき機械を休ませなくちゃいけないの」と言っている。どうやらロボットと機械の違いが、ドラえもんに同居しているという事である。しかし、そう説明されれば「あぁ、まぁそうなのかな。」と思ってしまうのが不思議でもある。日頃のドラえもんが抱える負担を思えばこそ、納得する事なのかもしれない。
ところで、この「海底ハイキング」という話は全体で何日間くらいの事なのだろうか。最初こそ時系列がはっきりしているが、ページの中の余白を使っての時間経過がなされているので、だんだんとわからなくなってくる。さらに言えば、途中のび太本人が音信不通になり、気絶していたことも相まって、時間経過が分らない状態になっている。4〜5日ともいえるし、夏休み中の話であることを考えても長くても2週間なのではないかと考える。その間、ドラえもんはずっとメンテナンス中で出てこない。
そのドラえもんを休ませている間に、一瞬とはいえのび太が行方不明にさせ、その救助活動さえできていなかったという事態を、どのように考えるべきだろうか。海底火山の噴火とかって予測できないの?ものすごくびっくりしてたけど。
ドラミちゃんはドラえもんの「しっかりした優秀な妹」というイメージがある。ダメな兄に変わって、妹がバックアップする構図はよく大長編やTVスペシャルや映画などで見る事が出来る。
たまにおっちょこちょいなところもあって、それが彼女の可愛げと取る事もできるけど、さすがにこの件は致命的ではないだろうか。代役なのだからドラミちゃんが持つ責任は、ドラえもんと同等のハズである。持ち主のセワシのおじいちゃんのおじいちゃんであるのび太を、ここまで危険な目に合わせてしまったのは大きな失敗なのではないだろうか。まぁ、ドラえもんも危険な目には合わせまくっているが。
つまり、代役としてドラミちゃんを擁立したのは失敗なのではないだろうか。そしてさび付いてしまう事を恐れて、海底へ同行しなかったのは子守りロボットとしての責務放棄ではないだろうか。
実はこれは、自立性を促すためあえて突き放しているのである。という言い方もできる。そして設定上、ドラえもんよりも高性能な彼女は、高性能であるが故、のび太の自発性が問題を解決するように仕向けているようである。さらに言えば、長い事海中にいると体がさび付いてしまうという設定も、のび太の自立を促すための「嘘」であるらしい。
ここまで整理すると、思考としては次のような「そもそも論」へ向かわなくてはならない。いや、向かうべきだ。どんなことにも疑問や仮説を立てるべきだ。ただ漫然とドラえもんを読むべきではないと僕は思っている。そう、君もそうすべきだ。と、話がそれたが、そもそものび太という人間はたった一人で、未知の場所である海底へ行こうとするような勇敢な人だっただろうか。
日常回(大長編でない回を指す)においては、すぐに怖気づいて帰って来て、なんやかんやドラえもんと一緒に再出発をするのが、のび太という人間ではないだろうか。彼はこんなにも勇敢で行動的で、最後までやり遂げられる人だっただろうか。
これには答えがある。
この話におけるのび太は、のび太だがのび太ではないのである。
何を言っているのかわからねーと思うが、もはや見てもらった方が早い。
このコマを見て欲しい。
そう、ご存じ「のび太郎」その人だ。
これは、外伝作品「ドラミちゃん」の初回のラストカットである。突如、のび太の遠い親戚である「のび太郎」が登場し、案の定、のび太とのび太郎は間違われてしまう。お互いを説明しあった後、半ば押しかける形でのび太郎の世話をする事を公言するドラミちゃんで連載はスタートするのである。
子守りロボットとしてのプログラミングが、自らが子守りする対象を、すでにドラえもんに子守りされているのび太から、のび太郎に変更するのは自然な事かもしれない。「子守りをする」という事が、子守りロボットの性(さが)、アイデンティティー、存在理由でもある。
ドラミちゃんの全8話の連載の中では、ドラミちゃんが面倒を見るのはのび太では無くこの「のび太郎」であり、その他のキャラクターものび太郎の交友関係に変更されている。
だが今では全て「ドラえもん」に統合されており、キャラの書き換えや矛盾点の修正などが加えられており、無くなった設定の一つでもある。
つまり、海底ハイキングに行ったのは、のび太郎。であり、のちにのび太に差し替えられているという事だ。
たった一人で、光も届かない、酸素もない、水圧の掛かるような環境に、身一つで行くなんてのは、トんだ冒険野郎でしかない。のび太とのび太郎の違いは、まさにこの「勇敢さ」、「冒険心」にある。だからこそ、先に述べたようなそもそも論の違和感を感じるのである。
でも皆さんはこうも考えるのでは無いだろうか。
「のび太は割と勇敢だし、冒険心にあふれているじゃんか。大長編とか、映画を見てないのか。いざという時は何でもやるじゃないか、彼は。」
と。
ごもっとも。正しい意見である。
しかし、ちゃんと時系列を追う必要がある。
外伝作品「ドラミちゃん」は、1974年に8回の連載をして終了した。そして、それから6年後の1980年に、大長編第一作「のび太の恐竜」は発表される。つまり大長編が出来たのは、のび太とのび太郎が統合された後であると考えるべきである。
もともとドラミちゃんのエピソードの中には、SF色の強い作品が多い。今回の「海底ハイキング」もそうだし、「地底の国探検」、「ネッシーが来る」あたりは、普段のドラえもんと違う冒険譚であり、これらはのび太郎のエピソードなのだ。
のび太とドラえもんが日常を過ごすのとは別に、のび太郎とドラミちゃんは彼らよりもドラマチックな日常を過ごしてきた。つまり、コンセプトが違うのである。
このように表してみた。
ドラえもん = 日常におけるSF
ドラミちゃん = 非日常へ行くSF
ドラミちゃんの方が明らかにSFという点での熱量が違う。しかしそれが1つに統合されたので、行先のなくなった冒険心は、大長編のような形になったのではないだろうか。
日常のドラえもんではしにくい部分のある冒険を、ドラミちゃんが担っていた。と考えるべきではないか。だから、ドラミちゃんが責任放棄をしているかのように書いたが、そうではない。これは必然的にのび太(のび太郎)が一人で冒険をしなくてはならないのである。海底一人ぼっちというコンセプトの冒険なのだ。
とはいえ、のび太郎の勇敢さが、全てのび太に統合されたと言い切る事は出来ない。しかし、その冒険心をこのエピソードや大長編などから垣間見ることができるから、彼は、いざという時は何でもやるのだ。という印象になるのである。
冒頭、海底・深海の調査が進まない理由に対して、庶民的な感覚としてこう述べた。
「行けもしない海の底の事なんて、知らなくても生きていける」
のび太(のび太郎)の計画は、たった一人で日本からサンフランシスコまでを歩き切るという物であった。それは世界で初めての大計画だった。
惜しくも成功はできなかったが、彼の冒険は僕たちをワクワクの海へといざなってくれた。そして、自分でもやってみたいと思わせてくれた。僕らに、冒険心を芽生えさせてくれたのである。
「行けもしない冒険なんて、行かなくても生きていける。」
もしかして、いつの間にかこう思ってしまってはいないだろうか。
基本的に僕らの心は、自由だ。自由だから、体はここにあっても、心はまだ見ぬ世界へと向かって行っていいハズである。そして大事なのは、のび太(のび太郎)のように一歩踏み出す事である。
つまり、守られている環境から、自らの足で離れていく事でもある。
だから、このエピソードはずっと一緒にいてくれる「ドラえもん」ではなく、自立を促す「ドラミちゃん」なのである。
行く先に、光が届かなくても、酸素が無くても、水圧が高くても、くらやみがますます深まるばかりでも、前へ前へと進む必要があるのだ。自らを燃やして光らなければ、どこにも光などないのだから。
このコマののび太の後ろ姿に、そんなことを感じた。