#29 かいしゃ……、かいしゃ。パパはくそまじめでこまる。
私たちの健康と幸福と成功に対する障害物は、つねに私たちの心の中にあります。宗教家 ジョセフ・マーフィー
誰しもが、何かを背負って生きています。
自分本意・自分勝手に生きているなと思える僕でさえ、今や自分以外の人や社会に対して幾ばくかの責任があり、何かとヒィヒィあえいで生きています。
他人を思いやり、社会の為に頑張っているであろう皆さんにおかれては、きっと僕の比ではないくらいの荷を背負っていらっしゃることでしょう。
本当にいつもお疲れ様です。よくやっていますね、本当にすごい事です。え?僕に褒められても意味ないですか?まぁそうでしょうけど、まぁたまにはいいじゃないですか。
ですが、その荷物を何とか背負っていられるのは、ある程度の健康を有しているからという事を忘れがちではありませんか。
体が資本という言葉があります。
資本というとは、物事の大元。これが無くてははじめられない事もあるという事です。優先順位としての「健康」は高いところにある訳ですね。
だから人生という物の中で考えた時、「健康」はだいたい全ての物に優先されるべきであるとも言えます。
それでいながら、なぜか僕たちは「健康」をないがしろにしても、しなくてはならない事があるような気がする事が多々あります。ほかに優先すべき事があるような気がしてしまうのです。
ちょうどこんな風に。
てんとう虫コミックスドラえもん第2巻掲載「このかぜうつします」からの1コマ。
このコマは、ネット上でも日本の社畜を揶揄する時に使われていますね。
パパの「かいしゃ……、かいしゃ。」といううわ言だけを抜き取ってみると、もはやこれは意識障害なのではないだろうか。と思うほど重病であろうことが読み取れます。熱も40度近くあるかも知れません。
ママの表情は、パパの具合が悪い事に対して困っていると同時に、パパの会社に対しての姿勢に対しても困っているかのようです。
健康である事の重要さは、周りの人への影響も含めて、大事なんだな。と思わせられる1コマと言えるでしょう。
しかし、この「健康」とは一体何なのでしょうか。そのように考えた事はありますか?今回も、言葉の定義から見てみましょう。
この定義は世界保健憲章の前文にある物です。
身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない。
すこし分解してみてみます。
身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、
とあります。
まず、
身体的に完全に良好な状態
とは何でしょうか。
・なんらかの病気ではないこと
・体が丈夫であること
・不自由なく身体が動かせること
などが挙げられます。これを確かめるには健康診断や運動テストや反応テストなどが用いられていますね。
ここで疑問が生じます。
例えば健康診断で「B判定」だったとしたら、それはあなたは健康ではないという事なのでしょうか。一般検診では見つけられない病気は五万とあります。
また、不自由なく身体が動かせるというのはどういう事でしょうか。自分のイメージと違うという事でしょうか。運動テストの結果が「A判定」などのように最良の物では無かったら、あなたは身体的に不健康なのでしょうか。
身体が丈夫 の尺度は、本当のところ病気にかかってみないわからないのではないでしょうか。丈夫かどうかは、ストレスを与えないとわからないのではないでしょうか。耐久度テストをしないと測れないのでは。
それとも、これは障害を持った方の事を指すのでしょうか?いやいや、健常者でも、自分のイメージ通りに身体を動かす事が出来ない事なんてザラにありますよね。
そもそも、身体的に完全に良好な人などいるのでしょうか。
では次に、
精神的に完全に良好な状態
について考えてみます。
精神的に良好な状態とは何でしょうか。
・不安や悩みがないこと
・幸せを感じられること
・前向きに生きられること
などが挙げられるかと思います。
しかし、ここでも疑問が浮かびました。
この世に不安や悩みが無い人なんているでしょうか。前向きに生きていたいのはやまやまですが、なかなか難しい事ですよね。
この現代社会に生きていて、精神的に病んでいない人なんて、ほとんどいないと思います。
さらに言えば、精神の話なので尺度は主観になりますね。
自分が自分についてどう思っているか。で決まります。
仮に、自分は不幸せだと思えば、その人は精神的に不健康になるのです。ほかの人から見たら、全くの健康だとしても。
最後に、
社会的に完全に良好な状態
についてです。
社会的にという事なので以下のような事が挙がります。
・自分の潜在能力を発揮して義務を果たすこと
・医学的な状態に関わらずある程度自立していること
・生活をマネージメントし、仕事を含めた社会活動に参加すること
ここはちょっと説明が必要ですね。
日本における義務とは教育、勤労、納税の事を指します。
義務教育を受けられないという事情は多々考えれますが、身体的な理由を除けば、保護者の問題のような気がします。
つまり学校に通わせないとか、夜逃げ中で学校に行かせられないなどの、当人にとってはどうしようもない外的要因での事もあると考えられます。そのような場合でも、社会的には不健康である。となる訳です。
医学的な状態に関わらず、という事は、仮に身体的な障害や精神的な障害があっても、勤労可能な仕事やなんらかの活動を行う事で、社会に参加している事を意味しており、それが可能であれば社会的には健康である。という事になります。
ですが、皆さん。仕事をしながらこう思ったことは無いですか?
「これ、何のためにやってるんだろう・・・?」と。
社会的にどんな意味があるのかを、わからずにやっている物はどうとらえたらいいのでしょうか。それは本当に社会活動なのでしょうか。その仕事をつづけながら、自分は社会的に健康である。といえますか?
生活をマネージメントできる。というのはどういう事なのでしょうか。マネージメントとは、管理の事を指すと考えます。
誰かの手助けがあって生活が成り立っている人もたくさんいらっしゃると思います。その方たちは、誰かの手助けを受けつつ生活を管理している。と言えるはずです。
一見矛盾しているかもしれませんが、誰かの手助けを受けつつ自立している。という事もあり得る訳です。
この社会的に完全に良好な状態という定義にも、手放しでは賛同しにくい部分があるなと感じました。
実際、これらの健康の定義には賛否両論があるようでした。
とはいえ、無理やりいうとなれば、
健康とは身体的・精神的・社会的の3つの要素が不足なく成り立っている状態
となる訳です。
図で表すとこんな感じかも知れません。
ここでさらに健康の逆、「病気」という定義からも見る事でより多角的に見る事ができます。
病気とは何か。まあ、健康でない状態を指しますね。
英語では、病気に対する英語は主に3つで
それはdisease、illness、sicknessです。
それぞれを区別すると、
diseaseは、医学的な診断がされている「疾病」
illnessは、本人がそれをどう感じたり受け止めたりしているかという「病い」
sicknessは、周囲や社会がそれをどのように見なしているかという「病気」
であるとされます。つまり、
身体的な病気 → disease 疾病
精神的な病気 → illness 病い
社会的な病気 → sickness 病気
となります。
実際のところ、身体と精神と社会は、複雑に絡み合っていると言えますよね。
人間関係などの心理社会的なストレスは疾病を作り出し、疾病は人間関係に影響を及ぼします。身体に変化があれば、心理的な変化が生じ、これもまた人間関係に影響します。
とありました。
先ほど挙げてきた健康の定義についての疑問は、それぞれの要素を個別に見たから浮かぶものであり、病気の事を踏まえると本来は健康を一つの要素だけで見る事は合理的でないと言えるかもしれません。
つまり、
病気とは3つの要素のうち、1つでもバランスが崩れた状態
で、もしそうなってしまうと、残る2つ要素もそれによってバランスが崩れる可能性がある訳です。この3つの要素は複雑に絡み合っている。という事です。
今回のコマを使って考えてみます。
のび太のパパは、大事な会議があるのです。しかし、身体は高熱を出しており対応できそうにありません。先ほどの図で表すとこうです。
それによって、パパはこう思っています。
「大事な会議があるから会社に行かなくちゃ。」
その結果はこうです。
実際のところ、大事な会議がどれだけ大事でも何とかなったりするものです。そこまで、自分の社会的影響力はなかったりするのです。しかし、当人はそう思えなかったりします。
パパのこの かもしれない。 という恐れは、ついにパパの健康に以下のような影響を及ぼします。
このような状態が、このコマのパパの状態であると考えられる訳です。
そう考えていくと、いろんな事が見えてきます。
健康にいいから、この〇〇を食べる。とか、自分は飯も食わずにこれをやっている時が一番いい。とか、この仕事は社会に必要だから絶対にやらねばならぬ。などの言葉を耳にすることがあります。
もちろん、これらの事は無意味ではありません。しかしながら、片手落ちなのかもしれないという視点を忘れないようにしなくてはなりません。
なぜならば、パパに本当に起きているのは、身体的な影響だけだからです。
社会的な責任は確かにあるかも知れませんが、何とかなる物です。それを恐れるがあまりに精神的な健康を損ねているのは、ほかならぬパパ自身なのです。
のび太の「パパはくそまじめでこまる。」
はこの部分に対してのセリフである事が良くわかりますね。
冒頭、誰しもが何かを背負っている。と言いました。そして現状を鑑みると、気の持ちようで変わる部分は実際にはないかも知れません。僕も、どちらかと言えば根性論者ではありません。
明石家さんまさんが子供たちへのメッセージとして、こんな風に言っていました。
「心配するくらいなら今は笑え」
もちろん、できる事、やりたい事、やらねばならない事は違います。
でも、不安によって精神的な健康を損なうのは、本末転倒です。それこそもしかしたら、くそまじめでこまるのかもしれませんね。
このコマを見てそう思いました。