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Little Physioを終えて 日本人フィジオは医療界の「トヨタ」になれる

今回Little Physio に参加してみていろいろ書きたいですが、本当に長く書いてしまっていますので、でも本気の思いを書いたので読んでください。

まず初めに、ドキドキしていた帰国について書きたいと思います。

オーストラリアから日本への帰国の規制が緩んだのが6月1日で、そこで急遽帰国を決めました✈️
日本ではいろんな出会いがあり、帰国して本当によかったです。

オーストラリアから🇦🇺日本入国には出国の72時間前以内のPCR検査陰性証明が必要になります。

私の場合ブリスベンからシドニー経由で日本ですので、シドニー発のオーストラリア出国72時間前の検査が必要で、火曜日の午前11時頃にPCRを受けに行きました🏥

本来オーストラリアではPCRは無料ですが、自分の都合でのフライトなので120ドルかかります。

事前にオンラインでパスポート番号やフライトの詳細を記入してプリントアウトして検査場に持っていきます。

ドライブスルーの検査場で検査を受けて24時間以内にメールがきますと説明を受けて、検査場を後に。

ドキドキしながら待っていたら翌朝にはメールが来て無事に陰性の書類が来て無事に飛行機✈️に乗れました。

ただここからが大変でした。
シドニーで乗り換えなんですが、コロナのため、出国審査が大変で、飛行機の乗り継ぎに余裕を持って約3時間半あったのですが、待っても待っても列は動かず、結局ANAのスタッフが、最終コールで呼びにきてくれてなんとか優先レーンに割り込んで10分前にギリギリ搭乗✈️

日本に行けない?
と心臓バクバクでした。

ついに日本に到着、3年半ぶりの日本🇯🇵

会場は京都なので飛行機で伊丹まで飛ぶはずが、まだまだコロナのための入国審査が長い長い、72時間以内のコロナ陰性証明、ワクチン三回の証明等々で、結局伊丹への乗り継ぎは出来ず、、、

でも日本は素晴らしい🇯🇵
ANAの職員がまたまたわざわざ来てくれ手続きも手伝ってくれて、飛行機も数時間後の便に振り替えてくれて、、

至れり尽くせりで、くたくたになりながらなんとか京都に到着できてホッとしました。

京都は小学校の時に住んでいたこともあって大好きな街😘

発表当日は緊張してか、オーストラリアとの時差からか朝4時半には目が覚めて寝られなくなったので、、

もう発表練習もしたし、

京都、学会

そうだ、「北野天満宮で神頼みだ」

往復8.5キロを走り、北野天満宮で誰もいない境内でお参りしてから会場へ向かいました。

発表は
日本人フィジオは’トヨタ’になれる

少し前回の記事にもかぶりますが、今回から読んでくれた方もいると思うのでおさらいがてら経緯を書かせてください。

日本の船橋整形外科という病院で働いていた時のこと、当時かかわらしてもらっていた柏レイソル、市立船橋、習志野高校サッカー部のデータを取らせてもらってJones骨折という足の第五中足骨骨折の発表をしにスペイン、マドリッド🇪🇸へ。
なぜか表彰も受けるとのことで当時お世話になっていたドクターと一足早く出発して会場へ。

当時英語もろくにできなかった自分は海外フィシオと話す中で、日本人の論文の少なさ、英語力、給与等々世界的には認められないと実感。

ただ、当時の葛山元基、完全に天狗でした(調子に乗っていました)。

サッカーもそこそこできて(上の世代ではインターハイ三位、選手権出場、言うまでもなく自分は三年生になるまで万年Bチーム、怪我をしたからフィジオになったのですが、怪我をしてプロになれないなどかっこいいことは言えず、高校入学3ヶ月で自分がプロになりたかったと言っていたのが恥ずかしくなるような挫折。結局3年間で先輩後輩14人がプロの世界へいく環境だったので)、研究もJリーグのデータ、ただ、俺は負けてないと、根拠のない自信(若気の至りです)

ただ、当時の自分は本当に負けず嫌い、当時から知っている人はよく分かると思いますが、何事もよく言えば全力、悪く言えば井の中の蛙大海を知らず

本当にサッカーも仕事も、お酒も、遊びもなんでも負けたくなかった。
だから負けないためには全力で、、、
今は時代的にもダメですが、
当時は勝負してお酒を飲みすぎて🥃先輩のコートに吐いたり、(本当すみません)、
起きたらゴミ置き場の近くで寝てたり(オーストラリアでやったら命の危険がありそうです笑笑)

マラソンも当時の研究チームの先生の影響で初めて、フルマラソンに出るも4時間半、最後5キロは足が攣って歩くだけ、そこに白髪混じりのおっさんに抜かれるし、中年の女性にも抜かれて、悔しくて悔しくて、、

そこからコソコソ走る練習をして少しずつタイムを縮めて、今では走るのが大好きに。

スノーボードも🏂負けたくなくて、ジャンプして回りたくて、休みの日は1人でも朝5時に起きて新幹線で練習行ったり、、、

仕事も日本人は、俺は負けてない、なんの根拠もないのに、、、

でも対等になるには英語ができて、海外の免許を持ってその上で戦わないとと思った自分は、世界でもレベルが高いと言われるオーストラリアのフィジオの免許を取ろうと、

当時日本人で日本とオーストラリア両国で持っている人は2人か3人くらいしか知りませんでした。(本当はもっといたのかもせれませんが)

でも自分で決めたらやらないと気が済まないし、妻にも海外で住むなら短期でなくて永住するつもりで戦いたいと、

30歳で仕事を辞め、オーストラリアに、意気揚々と行くも、、、

英語学校だけで、半年のはずが一年半、

オーストラリアで妊娠がわかり、ギリギリまでいましたが帰国して出産。

半年後に単身でオーストラリア🇦🇺に渡り再度語学学校、なんとか一年半後にキャンベラ大学大学院入学。

やったーー

喜んだのもつかの間

本当に辛かったのはここからかもしれません。

学費が年間400万円に、生活費、子供と妻を呼ぶものの半年でお金もなくなり💰妻にも日本に帰ってもらって仕送りしてもらう始末。

結婚してたので、公式のヒモですね。笑笑

今思うとよく離婚されなかったなあって。笑笑

子供ともトータル2年は別々、

何度もこんなことしてでいいのかの自問自答。

高額の授業料を払っているのに、かたや子供にコンビニでお菓子せがまれて数百円のお菓子を買ってやれないもどかしさ。

お金がなさすぎて、ブラジル人🇧🇷と四畳半の部屋に住んだり(ベットの幅隣と50cmくらいで、いびきがめちゃくちゃうるさくて寝れなかったり)、

教会の⛪️手伝いでパンの廃棄を🍞協会に持っていくみたいなので余りをもらって二年間パン食べて生活。

オーストラリア人の友達からは日本人は寿司が好きだと思っていたけどパンが好きなのね🍞と勘違いされるし、、、

だから最後卒業の前に手巻き寿司パーティーをして違うんだって教えてあげました笑笑

実習でも英語の問題と自分の頭の問題で、オーストラリアでは5週間を5回行くのですが、最後3回は担当の先生が合格させられないと学校に連絡して、学校から人が見に来る始末。当時の院の先生もオランダ🇳🇱出身で海外からの留学生だったこともありうまく話してくれてなんとかギリギリで合格。
メンタル病みました。

留学中も、大学の先輩が紹介してくれたブリスベンの人たちとサッカーをやらせてもらって、打ち上げではビール飲ませてくれたり🍺(当時はお酒なんて買えませんからビール一杯が高級シャンパンくらいの感覚)、ご飯食べさせてもらったり、泊まらせてもらったり、車まで貸してくれたり、、🚗

話をLittle Physio学会に戻すと、

会場からどうやったらオーストラリアにいれるのかって聞かれて、、

今は来年40才で、丸くなったのもあって、実際はここまでくるのにはいろんな人に助けらた、いい出会いに恵まれたっていうのが正直なところです。

ずっと不安で、例えるなら、例えが悪いですが、漫画カイジのビルの屋上から綱渡りをして、落ちたら下は数百メートル、っていう感じでした。
カイジは自分がギャンブルで借金して自分のせいですが、僕も葛山元基というボロ船に妻と子供を乗せてオーストラリアでフィジオになるというギャンブル(よく言えば投資)の海に出港してしまってるわけで🚢なんかカイジに近い感覚でした。

きれいごとに聞こえるかもしれないですが、ただ運が良かった、出会いに恵まれた、正直そんな感じです。
(もちろん自分も頑張りましたよ😊笑笑)

やっぱり1番はその留学を許してくれた妻に家族。

以前の職場の先輩や先生、大学の先生、サッカーの仲間、ブリズベンやキャンベラの方々。本当に自分はいい出会いに恵まれました。

オーストラリアに来ることがベストとは思いませんが、選択肢の一つとして、海外に目を向ける若い人がいてもいいのかなあって思って、今回のLittle Physioもやらせてもらいました。

ただ、自分もまだまだです。
やりたいことが山ほどあります。研究もしたいですし、博士課程も行きたいですし、自分はできないことが多すぎて不甲斐なさも感じています。
でもそんな時にいろんな人たちに助けてもらったんだと振り返ると、じゃあできないことはできないと言ってもいいじゃんって、

もちろん自分1人でできることに越したことはないですが、

僕はサッカーではサイドバック、身体能力は低いですが比較的ボールを取るのは得意で、、

それは自分の「できること」「できないこと」を理解してるからだと思ってます。
駆け引きして1人では勝てなくてもセンターバックや前の選手にコースを切らせてボールを取る。

シュートを決める才能はないのはわかっている。(もちろん点取って目立ちたいですよ本当は)

だからボールを取ったら点取れるフォワードにパスを出す。試合に勝てたらその後のビールって🍺世界で1番うまいんですよね。

フィジオの世界でもオーストラリアで免許をとっている日本人は数が少ない。

そのことについては誰かの助けになれる。

研究なんかは素晴らしい頭のいい先生が日本にはいっぱいいるんだから教えてもらう。

日本人の先生方本当に優秀なんですよ。絶対オーストラリア人よりすごいことを丁寧にコツコツやってます。

今回の発表は
自分1人では何もできない、質も量も。
だから協力して足りないところをみんなで補って日本人の勤勉さを出して医療界のトヨタにっていうような感じです。

自分がゴールを決めなくてもいい(若い時は決めたい気満々でしたが笑笑)、

チームでどうやったら勝てるか、勝つために何をするかみたいなことを今は思ってます。

偉そうですみませんが日本人はもっともっとできるはず。

将来的にはみんなでチャレンジを重ねて、トヨタになれる、そして超えられるのではないかと、、

そんなことを思いながら今回はやらせてもらいました。

そして素晴らしい出会いに本当に感謝です。

参議院議員の国会でもテレビから見たことある小川克己先生、日本理学療法士連盟の半田会長はじめ、一緒に戦った11人、交流会では名刺が40枚なくなるほどたくさんの人が自分のブースに来てくれて、東北からわざわざ葛山を見に来た?と言ってくれた人まで。

今回のイベントを熱心にサポートしてくださったスポンサーの方々、熱い思いすぎて涙が出そうでした。

ここ1ヶ月で何度もアドバイスをいただいたWith You(伴走支援者)の中馬さん、日本理学療法士協会副会長の大工谷 新一先生にはお世話になりました。この場を借りて感謝を伝えたいです。

オーストラリア🇦🇺から無理して帰ってきて本当によかったです。

そして’スイッチオン賞’という貴重な賞をいただきありがとうございました。

素晴らしいテレビカメラのようなカメラでインタビューまでしてもらってなんちゃって有名人になった気分でした。

長くまとまりのない話で申し訳ありませんがそんなことを考えながらオーストラリアに向かう飛行機に✈️のっています。

まだまだ葛山元基やりたいことが沢山あります。
皆さんの力を借りながら頑張っていきたいです。

オーストラリア帰国後の最初の目標は、、、

まだサッカーのシーズンで、チームから1週間のオフをもらって今回帰国したので、サイドバックですがアシストだけでなく点取りたい⚽️
(ってお前さっきと言ってること違うではというのは突っ込まないでください。夢を語るのは自由ということで笑笑)

このLittle Physioの益々の発展を願いながら、第1回に賞をいただいたことに恥じないように今後とも頑張っていきたいと思います。

最後まで読んでくださってありがとうございます。

葛山元基


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