ロングヘアとかいう固定資産

この記事は「ゆる言語学ラジオ非公式 Advent Calendar 2024」に参加しています。前の記事はノサダさんの「Discord音声配信Hydraterをつくる」です。次の記事はめだまやきさんの「店員さんとうまく話せないけど専門店のスタッフになってみた話」です。

髪なんか伸ばすからいけないのだ

 髪を伸ばすことには面倒が多い。10万本の細線が顔の周りで縦横無尽に動き回るのだから、些細なことで圧倒的な視界不良に陥る。それに、衣類との干渉にも気を配る必要がある。髪をまとめれば幾分マシになるが、今度はポニーテールアタックの危険が発生する。
 とにかく日常の中で髪の存在を意識する瞬間が多い。髪が長くて何も面倒が起こらないという人がいればきっと自分を騙しているか、そうでなければ相当の大物に違いない。
 しかも、まともな人間という資格を得るには毎日風呂に入る(少なくともそう思われている)必要がある。風呂が億劫なことには周知の問題提起がなされてきたが、髪が長いと余計に風呂場から足が遠のくのは想像に難くないだろう。ここからさらに「美容」という変数が追加されるともう大変だ。
 美容を気にし始めると、まず髪を洗う時間が体感で倍に伸びる。勢いよくガシガシ洗うと髪質もガシガシになるので、ガシガシとは逆のやり方をとる必要がある。詳細はさておき、髪を丁寧に洗おうと思えば風呂の時間はいくらでも伸びる。
 悪いことに髪の美容は洗うだけでは終わらない。リンスとかコンディショナーとかトリートメントとか、出た後にもヘアオイルとかヘアミルクとかを髪に塗る。髪が長ければ長いだけこれらの消費が増えるし、ドライヤーがこれまた鬼門である。こうして風呂にまつわる一連の作業を終える頃にはゆる言語学ラジオを1本聞き終わるくらいの時間が経っている。
 朝の支度のことまで書くと流石に憂鬱になってくるが、朝は朝で熱した鉄板に髪を挟んだり顔に絵を描いたりするので、やはりゆるコンピュータ科学ラジオを1本聞き終わるくらいの時間が経ってしまう。

 これほど面倒であるにも関わらず、髪を長くしている人は男も女も世の中にありふれているように思う。これは一体どういうことなのか。

 かくいう筆者もそこそこのロングヘア所持者である。では私はなぜこんな面倒なことをしているのだろう。

ロン毛の元凶

 そもそもなぜ私が髪を伸ばし始めたのかというと、それは惰性であった。それ以上でもそれ以下でもない。最初は惰性だった。気づいたらヘアピンではどうにもならないレベルのロン毛に成り果てていたのである。一人暮らしをするようになって、美容院に行く手間が伸びていく髪を世話する手間に勝ってしまったのだ。
 髪は何の努力をせずとも勝手に伸びていく。私がものぐさで綺麗な髪に全く興味が無くても、風呂とドライヤーの手間は律儀に積み重なる。結果的に、怠惰を積み重ねることでより大きい面倒ごとが自分に降り掛かることになった。現代の寓話である。

 私が髪を綺麗にしようと思い立つのは髪を伸ばし始めて一年経つ頃だった。帰省した時に親が行きつけの美容院に連れて行ってくれるというので、これ幸いとホイホイついて行った。そこで私は、前髪を作ってもらった。ちょっとした変化だったが、前髪のある自分を鏡で見た時、何とも言えず良い気分になったのを覚えている。これをきっかけにして私は美容に目覚め、そのうち風呂とドライヤーの時間が2倍に増えた。

 えらいもので、人は状況が変わると意外にちゃんとするものである。相変わらず私は面倒くさがりだが、ヘアケアは毎日のことで単に風呂の工程の一つでしかなくなった。今やこれも一種の惰性なのである。なんならもう少し色々やってみたいと思っている節がある。毎日やっているうちに惰性の底が変わったのかもしれない。

 世のロングヘア所持者も大体同じことを言うと思う。人間は案外ブルシット・ジョブを求めているのかもしれない。人間誰しも大なり小なり生活のために面倒なことをこなしているが、加えて美意識の実現には単に面倒だとか手間がかかる以上の意味があるのだろう。

髪の毛の資産価値

 そうは言ってもロングヘアの維持には実に手間がかかる。はじめの方を読んでいただければ分かるように、「綺麗なロングヘア」というのは持つだけで維持費と時間が溶けていく固定資産なのだ。いや、持っていても課税されないのでむしろおトクかもしれない。

 「賢者の贈り物」という寓話をご存知だろうか。恋人同士の贈り物に関するすれ違いコントのような話なのだが、そこに登場する女性が自分の髪を売ってお金を工面するというシーンがある。
 実は現代日本においても髪を売るサービスが存在する。背中まで伸ばした良質な髪が最大5000円という相場感らしい。髪の寄付(ヘアドネーション)があるのは知っていたが、どの分野にもきちんと営利事業として成立させている人がいるようだ。私は自分の想像力の乏しさを恥じた。考えてみれば人毛の使い道などいくらでも思いつく。

 興味深いのは、たとえ髪の毛であってもそれに値段をつけるための基準が存在することだ。総務省のページでは土地と家屋を中心に資産価値と税額の評価方法を紹介しているが、これを見ると頭髪にも課税できるような気がしてくる。もしそうなったら毎年の税額で年収のように人の髪の価値が数値化されることになる。ディストピアである。これ以上考えるのはよそう。やはり髪の価値というのは美意識の実現のために費やされた努力と持ち主の主観体験に宿っているのだと信じたい。

まとめ

 そんなところでこの記事を終えようと思う。ロングヘアは面倒だが、なんだかんだ必要になればちゃんとするのである。維持費と時間は溶けていくが、それ以上に楽しみがあるのだ。ロングヘア所持経験のない方は一度挑戦してみてはどうだろう。









 …とここで締めてもいいのだが、この話には一つ不自然な点がある。

 怠惰で美容院から逃げ続けた私が、面倒なロングヘアから解放される絶好の機会をみすみす無駄にしているのである。それどころかわざわざ頼んで前髪などを作ってもらっている。そもそもロングヘアとの生活を続けるのを前提に据えている感があり、全く一貫性に欠けている。
 単にものぐさな人間だったら、この機会に乗じてさっぱりと短髪に戻して、以降も帰省するたび親に甘えて顔馴染みの美容院に連れて行ってもらうことで当座を凌ごうとするはずだ。

 したがって、なぜ髪を綺麗にしようかと思ったかを説明するには、なぜ前髪を作ろうと思ったのかを説明する必要がある。

髪を伸ばした理由 -センシティブだし面白くないから普段言わない方の-

 ここまで触れなかったことだが、実はずっとロングヘアに憧れていた。幼い頃にプリキュアを見てからずっとキュアムーンライトになりたかった。(内に秘めたかわいさへの憧れを変身によって解き放つキュアサンシャインの方じゃないのかというツッコミはやめてください。)
 惰性で伸ばし始めたというのは嘘ではない。ただ、その頃の私を正確に言うと惰性スタートの成り行きロン毛というよりはプリキュアワナビーの惰性ロン毛だったのである。(ロン毛になってもプリキュアにはなれないだろというツッコミはやめてください。)

 いずれせよ、私は「かわいい」に憧れていた。しかし憧れを持て余すだけで自分から動くこともせず、惰性のおかげで髪だけは伸びて行った。そのうえ自分に自信が無いので、持て余した憧れは畏れと気後れに変わった。自分もそろそろ前髪を作ってみようか、という発想にたどり着くまで随分無駄な二の足を踏んだと思う。
 だから初めて前髪のある自分を見た時、自分は前髪を作ってもよかったんだという安心を覚えた。私は「ロン毛の人間」から「前髪のあるロン毛の人間」になった。ちょっとした自意識の変化で、私はかわいくなりたい自分を許せるようになった。そして自分が憧れていた美しいロングヘアになれるかも知れないという光明が見えた。

 こうして私は「自分の見た目を良くしようとする人間」になった。少し遠回りをして、なりたい自分になろうとする努力のスタートラインに立った。

ロングヘアという私だけの財産

 自分を形作る新しい軸を手に入れたと同時に、私はルッキズムという一種の地獄に足を踏み入れた。まるで悪魔の取引だが、少なくとも私は良い取引をしたと思っている。私が私を許せたという体験は悪魔にも奪えないからだ。したがって私の髪も、誰にも奪えない私だけの財産だ。

 病的なルッキズムが蔓延する社会のことを正直好ましく思わないが、「見た目を良くする努力」には確かに価値があると思う。たとえ美醜という観念が存在する社会が地獄で、「見た目をよくする努力」が地獄の沙汰だとしても、私は自分の信じる価値を頼りに歩きたい。

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