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エセー「エスカレーターの先に周作、レオパルディと昼下がり」[2024.8.28]
快晴で酷暑。葉の照り返しも厳しい。
南茨木駅で起きた人身事故で足止めを食ったので、駅構内の阪急オアシスで時間を潰していたら、あっという間に復旧して、大阪梅田行きの電車に飛び乗った。
終点、大阪梅田駅で電車を降りると、茶屋町。梅芸やMBSの通りを抜けて向かうはMARUZEN&ジュンク堂書店。どちらの名で呼べばいいのか、正直いまだにわからない。とりあえず、ぼくのなかでは「大きな本屋さん」だ。
今回のお目当ては、岩波から出た『遠藤周作短篇集』。先週会った同期のFくんが、日本哲学研究者のOさんに勧められて読んで「すごくよかった」と言っていた。それに『沈黙』をえらく気に入りスピノザ的に読解しようとしている指導教員の影響も大きい。ぼくは『悲しみの歌』が好きだけど、人づての周作も気になる。だから、買う。
エスカレーターを上り、周作の作品を手に取ると、透明で軽いカゴに入れる。2階の文庫フロアをひととおり見て、いつものように、3階の単行本フロアを見て回る。
海外文学のコーナーは、ずるい。ぜんぶ欲しくなる。知らない土地の、知らない言語で書かれた本を、わざわざ日本語に丁寧に訳された本が、たくさん陳列されている。もし大金持ちだったら――なんて、そんな非現実的なことをぼくでもたまには想像する。
ぼくを中継地点にして双方向に、地震が来たら人間など余裕で潰してしまうだろうほどの大きな書棚がある。そのひとつ、「その他の海外文学」書棚のいちばんした、隅っこに置かれたジャコモ・レオパルディの『断想集』に目が留まる。
思わず手に取ってしまう。
それは思わぬ出費を意味していたが、もういい。
不毛な問いは、不問にする。世の常。おそらく、残念なことに、なにかを買うときには批判的思考力なんてあてにならない。ふだんなら、不毛とされることこそ検討しなければならないというポリシーから、テクストを読み漁っては、不慣れなぼくは返り討ちに遭い、完膚なきまでにやられて、ふがいなく泣いているというのに。いやだからこそ、とりあえずなんでも買って読むという心持ちだからこそ、購買の自制心が働かなくなっているのかもしれない。
きょうの衝動買いは、帯の《カミュ[…]東西の文人に影響を与えた》という売り文句よりも、装丁の黄と緑の美しさ(ぼくは緑や青が好き)と、ジャン・グルニエが著書『絶対と選択』のなかでレオパルディの名を出していたなあという自分の朧気な記憶に、その原因があった。そしてレオパルディの知人アントニオ・ラニエーリが付したらしい題がパスカルやルソーのような内容を彷彿とさせることが、ぼくの買うに足るもっともな理由だった。
「大きな本屋さん」では、こういうことがよくある。知らなかった本や自分の眼中になかった本が目に入り、気になり始めて、その気が自分にしっかり定着する前にはもう買ってしまっている。呆れるくらいに、楽しいこと。
エスカレーターを下りて、ひとりレジを済ませて、家に帰る。
最寄り駅で降りてスクランブル交差点を渡ると、下り坂。曇天。行きとは違う。
道沿いの並木道に目をやると、葉が黄とも緑とも一色では表せない色合いで揺れている。ぼくはようやく気が付いた。きょう、緑帯の周作と、黄・緑のレオパルディの本を買ったのは、偶然で、そして刷り込まれた必然だったんだと。運命じゃない、前もって決定された事柄であり、自由意志なんてやはり存在しないんだと。
紺の長袖シャツを背汗にぴったりくっつけて、〈今度は梅田でどんな本を買おうか〉、〈そろそろ秋用に深緑のシャツが欲しいな〉などと愚にも思いながら、孤独者は坂道を下っていった。
──「エスカレーターの先に周作、レオパルディと昼下がり」
(了)
【購入書籍】
遠藤 周作 2024『遠藤周作短篇集』山根道公 編, 岩波文庫.
レオパルディ, ジャコモ. 2020『断想集』國司航佑 訳, 幻戯書房.
[2024.8.28]
追記:
この「大きな本屋さん」は売場面積を縮小して、レオパルディたち人文書はどこか別の場所に身を隠してしまった。そのことは、遠いとおい夏の郷愁を誘うに十分な出来事だった。
[2025.2.26]