7.きくとこ

 日々のエセー『まいにちとことこ』
第7回は、「きくとこ」傾聴について。

 聞き上手ですね、と言われる。
 そんな自覚はない。ぼーっとしてるときもある。じゃあ、なんで?

 中学生のころから、耳が遠くなったような気がする。学校の定期検診では異常なし。話を聞いてるとき、聞いてるのに、ふと話の内容を掴み損ねて、「ん?」と訊き返すことがままある。低い音がたまに聞き取れない。今も。(早く耳鼻科行けよ、って話だよね。)

 聞き取りと言えば、小学生のころ、朝の時間に「聞き取りテスト」なるものがあった。毎日やるわけではなく、毎週金曜の10分間だけ。テストと言っても学校の成績には関係しない。ちょっとしたお話を聞いて、それをメモして、3つの質問に答える。その質問も難しいものじゃない。基本的にはかんたんな記述問題。懐かしい。できるだけ3点満点を目指すように言われる。ぼくは真面目な児童だったから、満点か2点で、1点なんて取ったことなかった。だからぼくは、人の話を聞けないわけではない。

 人の話を聞くというのは、案外エネルギーを消費する。だから、その使い方がうまい人、オン/オフをうまく切り替えられる人、つまり人の話をうまく聞き取って訊き返せる人が、聞き上手と言われるんだと思う。
 でも、ぼくはそうじゃない。聞きたくないことまで聞いてしまうことがあるし、聞かなきゃいけないことを聞きそびれることだってある。

 そんなぼくが聞き上手なわけない。訊き上手なわけでもない。なのに聞き上手と思われる。なぜか。
 それはたぶんぼくが、会話のなかで我を出して話すのをいつの間にか恐れるようになったからだと思う。そんなにビクビクしてるわけじゃないし、我を出してるつもり。だけど、無意識のうちに、今までの人間関係を反面教師にして、時にはそれがトラウマとして蘇って、相手の顔色を窺い、相手の出方を様子見てしまう。ほんとは、自分から話したいこと、聞いてほしいことが山のようにたくさんあるのに、それは言わないで待っている。と、わかるのだが、人は他人にそんなに興味はないみたいだから、全然やって来ない。でも、人は他人にあれこれ話したがる。それはまったく悪いことじゃない。ぼくは好きだ。人の話を聞くのが、ぼくでは感じられないことを知るのが、大好きだ。だから、できるだけ相手の発言はすぐに否定しない。自分が否定されると嫌だから、そうしない。ただそれだけ。

 よく「会話は言葉のキャッチボール」だと言われる。が、それって、誰か投げる人がいて初めて成立することだと思う。いない場合は、どうしたらいいのだろう。自分から投げろとでも言うのだろうか。その相手がぼくとキャッチボールするつもりがなかったら? あるいはその相手が野球にそこそここなれていて、ぼくでも受け取れないボールを投げ返してきたら? 会話って、結局は究極の「内輪ノリ」じゃないのか? ひねくれ者のぼくは、そう思い、ひとり悩む。

 本当に言いたいことは、漂流する。
 余計なことを言わないのがよしとされる。そのくせ、SNSでは面とは向かっては言えないことを垂れ流す。その責任を誰かに命じられるまで負おうとしない。まるで公害を起こした企業が損害賠償の命令を受ける前みたいに。垂れ流された言葉に混ざった毒で関係のない人までが死んでしまう。まるで公害みたいに。否定しないことがこんなにも難しいゲームはない(なんでも無条件に肯定的に受け取れと言われているわけでもないのに)。

 話の方向を見失った。
 言いたいことがあるとき、話したいことがあるとき、<今度会ったらあの人に話そう>とか<みんなに聞いてほしい>とか、そういった感情が生まれることは、いいことだ。ぼくにも、わずかばかりだが、ある。
 何かを話すとき、その何かを聞くとき、ぼくは素直だろうか……? 聞き上手でもないぼくが聞き上手だと思われるとき、つまり自分の思い込みと周りの評価が一致しないとき、そこで起きているズレは、そのすべてが一概にいいことだって言えるだろうか。あいつはなんでも言うこと聞いてくれるやつだと利用されてはいまいか。反対に、あいつは人の話がよくわかってないと馬鹿にされてはいまいか。そんなことないと信じたい。大人になっても、聞き取りテストは続いている。

 ぼくは、ボールを投げる相手を特定持たない。投げ返す相手が誰もいない長い夜は、虚空に向かってひとり、独り言ちる。

[2024.8.18]