25.のびとこ

 日々のエセー『まいにちとことこ』
第25回は、「のびとこ」身長あるいは成長について。

 生まれたときは、ちいさかった。
 
 予定日よりも15日早く生まれたらしい。46cm。平均よりは、ちょっとちいさい。

 小学校に入ったころも、そんなに背は高くなかったと思う。
 でも、小学校を出るころには、背の順で後ろから3番目。155cm。

 中学校に入ると、みんながみんなおおきくなり始めた。ぼくだけ取り残された感じだった。
 中1が終わるころには、後ろからよりも前から数えたほうが早くなっていた。いつの間にか、背は伸びなくなった。

 ぼくは、いわゆる「低身長」。だけど160cmは、ある。

 これを自分では評価しづらい、しづらいのだ。
 
 偏見や差別を抜きにしても、ひとは、ひとから思われてる以上に残酷で、背で「相手パートナー」を見つけたがるもの。その潜在的な無意識が、環境や状況、空間、空気に浸透して、自分の血液にも溶け込んでしまって、そして常在菌として自分自身と強く結びついていることが多々ある――「内面化」。ぼくも例外じゃない。

 自分でも〈そんなことはない〉〈一概にはそうとは言いきれない〉〈内在的偏見でしかない〉って思ってる。けれど、頭の片隅に残ってる、本音めいた事実、あるいは非常に疑わしい「普通/共通認識コモンセンス」をここで言うことが赦されるならば、男で170cm以上なら、どんなふうであっても、「男」として見てもらえるのだろうし、180cm以上なら「かっこよさ」の加点がなされるのだろう。159cm以下なら「かわいげ」のあるひととして見られるのだろう。(そしてこの傾向は、男性同士、同性間だと、より強くなる。)
 きっと、きっとね。
 X上で身長にかんする不毛な議論が起こるたびに、このアンビバレントな気持ちは強化される。

 でもぼくは163cmで、それなのに「かわいげ」も「かっこよさ」も持ち合わせてないから、自分では自分に(満足とまではいかなくても)不満はないのに、「社会」にいると居心地の悪さを感じてしまう。それは「コンプレックス」と一言では片付けられないような、社会「風潮」に近い何かなんだと思う。

 それでもぼくは、物理的・生物学的な成長を見るよりも、精神的・社会的な成長を見たい。その成長は、語弊を恐れずに言えば、なにも今の、あたかも絶対唯一と思われている、この「社会」だけに合わせていくものではないのだ。

[2024.9.5]