言葉遣いは認知の使い
言葉とは世界の見方である。
万物をどう認識するかを表したものである。
雨という言葉がある。
雨は端的に言えば空から降ってくる大量の水の粒と言える。
しかし、日本語には雨の状態を表す沢山の言葉がある。
時雨、寒雨、霧雨、小雨、地雨、細雨
少し挙げるだけでも、その様態を表す言葉の多様さと認知の細やかさがわかる。
これらの語彙を普段から使っている者が雨を見た時、その認知の仕方が普段雨としか言葉を使わない者と異なるだろうというのは想像に難くない。雨に対する意識の仕方が異なっているのだ。
何事もそうだ、言葉は世界の見え方を表す。どのような言葉を使うかによって世界の見え方は影響される。
間違えてはいけないのは、必ずしもこれは細かいほど良いと言いたいわけではないことである。
良し悪しはその人がどのように世界を見たいか、どのように生きたいのかによるということだ。
例えば食べ物の不味さについて、語彙が豊かだとどうなるか。嫌いな食べ物の不味さへの認識が鮮明になる。対して語彙がまずいだけならどうか、感じた味は同じだがまずいとだけしか認識出来ない。
自分が好まないものはすぐ判別し、弾きたいという感覚ならば、細かい認識は不要であるしなんなら選別には邪魔である。
一方自分が嫌いな物を分析したい者もいる。それは自己理解をしたいからかもしれない。食べ物自体の性質について興味があるからかもしれない。そういう者にとっては語彙は多い方が良い。
言葉の種類だけではない、その使い方もとても重要である。少しの感情の動きに対して極端な言葉を使っていると、世界の見え方は大きく切り分けられることになる。極端な例だが不機嫌な時何にでも死ねという語彙が出てくるとどうなるか、世界の見え方は暗転していくように思う。つらいという口癖ならどうか、少しの疲れにつらいという言葉を当てはめていくと、気分は落ち込むばかりだ。言葉につられ心まで寄っていってしまうのだ。逆も然り、ポジティブな言葉には気分を上に持っていく力がある。言葉遣いが大胆になると上がる時も楽だが、下がる時の力も強い。言葉遣いが細かくなれば上がるのもゆっくりだが、下がるのも段階的だ。
これらを踏まえた上で問いたいのは、自分の使っている語彙は自分の求める世界の見方を助けてくれているかどうかである。
自分はどんな風に世界を捉えたいのか
魅力的なものにあった時、可愛いと言うのか素敵だと言うのか、はたまたやばいと言うのか。眩しいと手の届かない物のようにとらえるのか。
相手に怒りを覚えた時、人でなしと言うのか、この野郎と言うのか、クズと言うのか、相手に死ねと言ってしまうのか。
言葉遣いは私たちの世界の見方を必ずしも決定はしないが大きく左右するものであると私は思う。
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