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武田信玄は天下を狙ったのか

短文エッセイ・武田信玄は天下を狙ったのか


武田信玄は信長と同盟を結んでいて、三方ヶ原段階でいきなり「裏切り」(東大教授・金子拓氏)ます。最低でも7年は同盟していました。その間信長はずっと謙信との講和を仲介しようとしていました。

信長はあまり人を裏切りません。それだけにこの「裏切り」には相当腹を立て「武田だけは死んでも許さない」となります。信長に睨まれた武田勝頼も不幸です。最後は滅亡に追い込まれます。まっ、その後すぐに本能寺の変なんですけどね。

戦国大名で明確に天下を狙っていたと言える人物は一人もいません。秀吉は信長の死という偶然の結果です。家康は忠実な秀吉の家臣でしたが、色々偶然も重なって天下が手に入ります。

そもそも日本では地方分権が普通の形です。「厳密に言えば日本は秀吉まで一回も統一されたことがない」、記憶によれば司馬遼太郎さんの言葉です。私も同感です。奈良時代の朝廷すら地方の郷司との連合政権でした。

だから「武田信玄は死の間際に天下を狙った」と言われても同意はできません。そんな奇妙なことを考えるかなと思います。

それにしては外交を行っていないようです。京都に出るとなればいろいろと外交が必要だし、信長も細かい外交をしています。

もちろん戦国大名・武田研究者には「天下を狙った」という方もいます。でもなんか武田研究者って「信玄が大好き」なんですよね。対象に対する思い入れが強すぎて、その強さにこっちは引いてしまうのです。戦国武将でも天皇でも誰でも、勉強・研究の対象には科学者の如く冷静に接しのめり込まない。それが学者のあるべき姿と私は考えています。情熱が強いから間違いとは言えませんが、信玄の場合、ちょっと度が過ぎる方もいます。

さて私は徳川領土を狙ったと、あれこれ総合的に考えてそう思っています。信長まで射程だったという方もいます。でも美濃まで行ったら勝てるわけがない。歴史家の谷口克広さんが言う通り「補給線が伸びすぎて食料が足りない。疲れた兵を連れて美濃に行っても、2万5千ほどの兵で、5万を超える織田軍に勝てるわけがない」。谷口さんは高名な研究家ですが「勝負にならない」とまで書いています。まあそうでしょう。戦国最強の武田軍という言葉に囚われず、冷静に考えればそうなるはずです。信玄としては東海道と港と、それから塩なども欲しく、となると家康領で十分なはずです。

さてシラーっと「誰も天下を狙わなかった」と書きました。つまり織田信長もです。これを主張するのは東大教授の金子拓さんで、誠実な学風で知られます。僕は否定的ですが、説得力のある考えです。残念ながら学会では否定も肯定もされていません。こうした信長のあり方を「天下静謐の信長」とも言います。「天下静謐の信長 」はかつて脇田修さんが唱え、金子拓さんに引き継がれます。脇田さんは天下統一意識は当然持っていたと考えましたが、金子さんは五畿内の合戦をなくすことが目的であったと考えます。でも相手が攻めてくるので戦ったら勝ってしまう。勝つと領土が増えてしまう。信長には天下統一などという意識はなかったが、こうして領土が増えてしまう。武田を倒したあたりで「あれ、統一できるかも」と考えたが、すぐに本能寺の変となったと書きます。「織田信長天下人の実像・2014年」。私にとってはとても「否定したい」本で、だから何回も読んでいます。ちなみに金子拓氏の誠実な学風を尊敬しています。

金子拓氏は朝廷関係の文章の専門家でもあります。天皇と信長の関係を書くと、天下静謐は天皇を超えて存在する理想であると金子氏は論じています。これは脇田修氏の主張を受け継いだものです。その中にあって天皇は天下静謐を支える重要な存在であり、天皇も「天下静謐の理想」に奉仕するべきと信長が考えていたと主張します。史実の信長は時として天皇の定見のない裁定を「𠮟り飛ばす」こともあったからです。

ここが金子説の一番面白いところなのですが、今のところ学界で論じられているようには見えません。

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