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たまにはマジメな日記①

たまにはマジメな日記も書いてみようかと思います。

2年前に父親が他界した。
定年退職とほぼ同時にガンを患い、手術と再発を繰り返し、
6年の闘病生活だった。
喉にも転移し、放射線治療で喉が焼け、味覚がなくなったそうだ。
俺が幼少の頃、父親も俺も良く食べる方で、おかずの取り合いをしたものだ。
友人から俺は食事している時が幸せそうだと言われるが、なんのことはない、それは父親の血だ。
そんな父がのどのガン以降、めっきり食事を食べなくなった。
味がしない飯は何を食べても砂を噛んでいるようだと言っていた。
思えばその頃から父は生きる気持ちはなくなりつつあったのだろう。
そんな父の最後の楽しみはたばこだった。
結局亡くなる2日前までたばこは吸っていた。
たばこは辞めろと言い続けてきた母も、死が近づくのを悟り、
毎日たばこを吸えるよう手伝っていた。
俺はたばこは吸わない。
笑える話だが、父親がたばこを吸いながら毎日のように「こんなもの絶対にお前は吸うな」と教育された俺は、教育の中でこの教えだけは絶対に守った。
ガンの原因にたばこは絶対に関係している。
そのたばこに興味も示さない俺に対し、父親の満足度は高かった。

亡くなった年の正月、父親は俺と無理をして初詣に一緒に行った。
もちろん昔通った遠いテレビにも出るような有名な神社ではなく、近所の神社ではある。
お賽銭箱と鈴がある場所に登る数段しかない階段をゆっくりと登り何を祈ったのだろうか。
祈り終えた後の父親はとても晴れやかだった。

その年の春、父親はもう通院しないことを決めた。
若い頃父親は強い父親像そのものだった。
小学生の頃、俺が喧嘩に負けて帰ると勝つまでやれと家に上げなかった。
車の運転をしていれば煽られると相手が誰でも怒鳴りつけた。
そっち系の人に絡まれた後輩を助けるために事務所に行ったこともあると聞いた。
俺もスポーツをしていて、だいぶゴツイ方だったが、自分史上最強の時代に腕相撲で勝てたことがない。
そんな父が、この先、通院を続けて医療の力で細り、弱りながら1分でも長く生きることを望まない気持ちは、息子で同じ血が流れているからこそ理解できたし、弱くなる父親を見て耐えられる自信の方が俺になかったから、素直に父親の決定は受け入れられた。
この点については、血のつながりがない母親には理解できなかったことかもしれない。そんな母親が少しかわいそうではあった。

最期の日の午前中、表情は穏やかだった。
ベッドで半身を起こし、どこか痛むところはあるかと聞くと、
「どこもいたくないよ」と静かに言っていた。
午後になると、少し発熱があった。
苦しいかと聞くと、「〇✕※▽◇・・・」
声も小さく、弱々しかった。
母親が「何言ってるかわからないな」と申し訳なさそうに言った。
結局、父親の発した言葉はそれが最後だった。
直後に脈が乱れ、最後に大きく目を開いてから、目をつぶると同時に脈が止まった。

最期の言葉がなんだったのかわからない。
潔さがあった人だから「もう終わるね」と言ったようにも思う。
母親に対して「ありがとう」と言ったようにも思う。
言ったことが何かわかったとしても、その数秒後にはお別れだった。
途中になる会話なら、何を言ったか想像できてむしろ良かったのかもしれない。
とにかく、最期苦しむことはなかった。
弱い父親になって旅立ちはしなかった。

正月の初詣に行くとどうしても思い出す。
お祈りの前後での晴れやかさ。
そこから最期までの潔さ。
ここまで読んでくれた皆さんの大切な人との時間が少しでも長く続くことを願っています。