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ロードフォト ~時には故郷へ~

 何か思い悩んだら原点に立ち返る。一番簡単で、一番確実なリフレッシュ方法だ。

 原点と言っても、何が自分の原点になっているか分からないという人も居る。

 人の原点は一つじゃない。自分のやっている仕事の原点は何だったのか、写真をやっている人の原点となる写真やカメラ、或いはロケーションは何だったのか、それらの想いの始まりは何だったのか、または何処だったのか。そんな風にしてその人の原点と言えるものは複数存在する。

 そして自分自身の人格の原点は大抵、幼少期を過ごした故郷にある。

 もし、日常生活に支障は無いがある程度心の中を不安が支配する、ぼんやりとした‘‘迷い‘‘が現れたら、故郷に帰ってみるといい。

 具体的な計画は無くていいから、思い出した順に場所を巡ってみるといい。

 田舎の駅に改札は無い。当たり前のように人も居ない。


 なんでかよく分からないけど、ホームにはやたらと花が咲いていた。

 誰もいない駅。吹き抜ける潮風が心地よくて、暫くここに居座ってしまった。


 駅周辺には沢山のオオキンケイギクが咲き乱れていた。圧巻の咲き誇りなのだが、侵略的外来生物に指定されているらしい。子供の頃はこの辺りにこんな花は咲いていなかった。この30年の間にこんな所まで運ばれてきたのかと思うと、一周回ってなんかエモい。


 駅を出ればすぐに海が見える。

 関東にある世界的名所に比べりゃ、誰も知らないし別に見向きもしないこの風景だけど、これも故郷の誇りだ。


  誰かが堤防で遊んでいった跡がある。

 そっか。俺を育ててくれた故郷はこんな所だった。


 人は心のありようで世界の見え方が変わると言うが、一分一秒変わり続ける世界の中で、何かを心にとめるには、その分心の中に余白が必要になる。

 やり慣れた活動や、生活や社会の中で課せられた義務でメモリが圧迫されると、ただでさえ一分一秒のペースで変化する世界の中で何かを見つけるのは至難のワザだ。

 だから人には旅が必要なのである。

 日常やルーティンは時に、自分自身を縛り付ける枷になる。そうやって自分自身が何者だったのかを見失う。


 鉄道もそこそこ好き。それ以上にこの線路のある風景が好き。別に電車本体は走ってなくていい。いや、SLだったら走っててくれて欲しいかな。

 そうだ。俺はいつもこんな感じでモノを見ていたんだ。


 子供の頃はこんなに草ボウボウな事は無かったように思う。

 この石段に腰掛けては、そこを流れる水路にいるイモリを眺めていた。今は水は流れていない。田んぼが無くなり、必要なくなったからだ。

 今でもここに居るだけで、ヒグラシの鳴き声が聞こえてくる。


 かつては田んぼだった所。畔端を歩けばイナゴが飛び交う所だった。


 こんなに狭い川ではなかった。夏にはフグが入ってきた。今もツバメが水を飲む光景が見れる。

 どこに居ても落ち着く。

 でももうこの集落には居場所は無い。

 あの時遊んでくれたあんにゃ達もおじ達も居ない。

 でも自分が何が好きで、何が怖くて、どんな事が苦手で、どんな事が人より得意だったのか。公園のうんていから落ちた時はどうやってその痛みと問題を乗り越えたのか。いろんな事を思い出した。

 良い一日にできた。

 思い描いたような写真が撮れなかったのは心残り。そこに自分の弱みを見た。


故郷(ふるさと)  

冬の夜、波や風の音が怖かった。山の獣達が怖かった。山菜は苦かった。寺も神社も怖かった。 でも、節目のご馳走は美味しかった。里の生き物達が愛しかった。季節の渡り鳥達に憧れた。寺も神社も本当は優しかった。 教えてくれたのは全部故郷だった。 故郷を心から誇りに想う。

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